昨日大寒の朝はお湿り程度の小雨のあと、信じられないくらいの温かさとなりました。
法事はありませんので本堂内気温はチェックしませんでしたが楽に10℃以上はあったでしょうね。
一枚少ない上掛けナシで本堂に入りましたがまったく苦になりませんでした。
午後は15時からの般若寺前住の通夜へ。
私が20年前に拙寺住職として相良に来た時から目を掛けていただいて大層なお世話になった方。
そちらの庫裏は史跡調査会の会場としても永らくお世話になっていました。
駐車場の余地は無いと聞いて奥方に門前まで送ってもらいましたがそれは大正解、さすがの曹洞宗、大和尚の通夜式、半端ない参列者と坊さんの数で圧倒されました。
一昨日のい~ら以上の・・・
付近曹洞宗のお坊さんたちの大集結といったところでしょうね。有髪の坊さんは私だけだったような。
曹洞宗の通夜式に座することは初めてのことでしたが、入堂の際、経本を手渡しされました。
興味深く、そちらをペラペラっと捲ってみましたが漢文ではなく、書き下し文でド素人の私でも少しばかり分かりやすいものでした。
「仏垂般涅槃略説教誡経」通称「遺教経」(ゆいきょうぎょう)という経典で要は釈迦入滅時の最期の説法(遺言)とのことですが内容は厳しい。
「罪悪深重・煩悩熾盛」(歎異抄一条)の私というものがまさに懺悔しなくてはならないような詞の数々が。
良き経験をさせていただきました。
帰宅時は奥方に再び拾ってもらいましたが、まだお日様もあって無風、いつもの薄っぺらの装束ながら、まったく寒さを感じることはありませんでした。般若寺さんありがとう。
扨、美濃の黒野城(場所はこちら)。
平城で高低差は殆どなしではありますが周囲の堀と本丸を囲む土塁が見事に残存しています。
日本城郭大系から。
「城の規模はほぼ方形で面積10500㎡、水堀の周囲6970㎡で高さ5.4mの土塁が残っている。南西側に入場門があり城門の礎石周囲の水堀は、現在も水をたたえている。古図によれば東西・南北ともに1㎞の方形で四方に隅櫓を構え、鉄砲の使用を考慮した城郭であった。」
「黒野城城主加藤左近大夫貞泰は加藤遠江守光泰の子である。加藤氏は西美濃安藤家の一族で土岐氏の旧臣であった。
加藤氏は黒野を領し、土岐氏に属してからは厚見郡今泉の橋爪に住んだ。
光泰はその後、斎藤氏に仕え、のち秀吉に従って戦功をあげ、丹波周山城(または)、近江高島城、尾張犬山城を経て天正十三年(1585)大垣城(または)に入った。
一時秀吉の勘気をこうむり豊臣秀長付きになったが、ほどなく召し帰され佐和山城(または)城主となった。
天正十八年小田原征伐に功をたて甲斐国(または、または、または)二十四万石を領した。文禄元年(1592)文禄の役に戦功をあげたが、同二年八月、帰国の途中に急死した。
一説には石田三成に毒殺されたとも・・・
子貞泰は幼少という理由で翌三年、黒野城に移され四万石に削封された。
慶長五年(1600)関ケ原では初め西軍に与したが、まもなく東軍に転じて宇喜多秀家の軍を破った。同十五年七月伯耆米子六万石に移封となった。」
関ケ原の際、当初西軍で突如東軍寝返りはひょっとして事前に調整されていたのかも・・・などと思ってしまいます。
事実かフェイクかわかりませんが「お父さんは三成に毒殺された・・・」などと摺りこまれていれば「よしやってやる・・・」という気持ちに変化するのは自然の流れかも。
その転機のおかげで生き残れたのですから・・・ヨシとしましょう。
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小山昭治 (火曜日, 21 1月 2025 09:04)
通夜式はご苦労様でした。
一光さんの右4人目に座していました。
悔やみでお別れは十分にして、坊守ともじっくりと話をしてもらいました。
引き出物にケヤキの数珠が入っているとか。(まだ開けていません)
自分が集めた材で作成したという用意周到な業。中門もしかり。
すでに自分の死をわかっていたような仕業。
「おまえが全部やると子供が成長しない」わかっているのか。
いまさら私の知ったことはない。
今井一光 (火曜日, 21 1月 2025 18:30)
ありがとうございます。
私の右4人目とは驚きです。まったく気づきませんでした。
というと右3人目の僧だったと思いますが開式と同時に携帯の呼び出し音が響きましたね。
相当驚かれたのではないでしょうか。
やらかすものですね。他にもlineの着信音が数回。私もあの時は携帯電話を衣の下に忍ばせていましたのでマナーモードの切り替えについて不安になったくらいです。
前住の配慮については感服しますが、現住もあれだけの大きな葬儀を全うしたということは素晴らしいことだと思います。多方面に気を使っての様、大変でしたでしょうし天晴れでした。