手の凝った石垣の整然 大小矢穴 甲府城

警戒の声をあげ続けたせいなのか(そんなワケはない・・・) 、台風10号のコースは当初の最悪想定東海地方よりもさらにさらに西寄りになっていました。私としてはニンマリで、早々に対策を「解除」など思い浮かんだところですが・・・

まぁミッドウェー海戦の件(情報錯綜に振り回されて後手を踏む愚)も思い描くところですのでしばらく静観します。

 

10号は950hpくらいの発達も言われていますが、それであると死者が出ても不思議がナイくらい。

各対策を立ててうまいことやり過ごしていただくほかは有りません。まぁ外を出歩かないことが真っ当な策なのですがね。

予報を注視して当該地域の学校も会社も「その日は休日にします」といった判断ができるか否か、その組織というものの良し悪しが分かるところ。

管理者次第で他者の生き死が左右されるかも・・・といったシチュエーション。さぁ、どうする。

 

というワケで当地は朝から良好な天気。

私はここ数日奥方に梅の干し担当の指名を受けていましたので、雨に降られることだけは避けたいところでした。

その網籠を外に出した際など雲の動きについて敏感になり午前の法要前には取り込んむなどして対応していましたが午後に入ってもずっと晴れていました。

そして軽トラの荷台の鉢植えたちに水やりをと境内に車を移そうかどうか考えている間にザ~っと降りがありました。

私の思うが如く事が進んで結果OKOKの仕合わせといった一日でした。

 

扨、甲府城またの名を舞鶴城。

粋な名前ですが、その石垣についてはその数寄者(石垣好き)にとっては捨てておけない遺構といいます。

その「粋」とは戦国期末期の城とはいうものの当地の盟主だった「武田家」とは一切関係なし。

そもそも近隣の「躑躅ケ崎」の館の土塁と堀で囲ったそれとはまったく違った雰囲気となります。

あの余計な棒っキレの無粋もありますが私はやはり土塁の方が好みですし、崩れかけた野面積みの方が趣を感じます。

 

各時代支配者を経て今の石垣の成立となっています。

「山梨県の歴史」より

徳川家康(城代 平岩親吉) 天正十~十八

羽柴秀勝         天正十八~十九

加藤光奏         天正十九~文禄二

浅野長政・幸長        文禄二~慶長五

徳川家康(城代 平岩親吉) 慶長五~八

徳川義直(城代 平岩親吉) 慶長八~十二 

幕府直轄 甲府城番    慶長十二~元和ニ

徳川忠長         元和ニ~寛永九

幕府直轄 甲府城番    寛永九~寛文元

徳川綱重・綱豊        寛文元~宝永元

柳沢吉保・吉里        宝永元~享保九

幕府直轄 甲府勤番支配  享保九~慶應二

幕府直轄 甲府城代     慶應二~明治元

 

「矢穴」とは石材加工のため、特に割り出しのために打つノミやクサビの痕跡のことですがこちらには大小のそれが見受けられます。

城を巡っていれば江戸期の城郭としての「当たり前」に出会うこととなりますが当時の施工石積石垣にはつきものでした。