川島掲示板続き 西谷院卵塔たちの奥に宝篋印塔

川島清右衛門墓の掲示板の続き

まずは「御用所」の件。

私はその「史跡」の記述について検証する術を知りませんがそれから推測するに、まず城内に「御室御用所」を招へい設立し、その後相良波津の「百花」にまたその「御用所」を開設したというところ理解したのですが、その御用所とは何かといえば相良藩の経営する金貸しシステムのことですね。

貸付業務(銀行業務)により金利、今で言えば法律に抵触しそうな高金利・・・、を稼ぐというやり方ですね。

当時、キャッシュの少ない時代ですから需要はあった筈で藩の財政はそれなりに潤ったに違いありません。

 

そのキャッシュの貸し出しと金利含めたカネの回収のノウハウを得るためにその「御室御用所」をまず最初に招いたのだと思いますが・・・

ノウハウだけでなくその元金の借り入れに「御用所」の名も頂戴するという算段。

そこで「御室御用所」とは・・・。

単純に「御室~おむろ」といえば仁和寺の事。言わずと知れた絶大門跡寺院ですが、江戸期における権勢(財産)も突出していた

わけで、当時その門跡寺院たちは有り余る金子をさらに投資、その窓口(銀行支店)を各藩の求めに応じて出張開設したのかと。また「御用所」は富籤御用所(宝くじ事業)手形の発行などの事業細分化して武家社会に密かに君臨していたことでしょう。

その「御室」とは通称は仁和寺ですがその類の門跡寺院の金貸し出張所「御用所」にも「御室」を冠したのではないでしょうか。

 

幕末の武家の懐事情はかなり悪かったため、その御用所より手形や現金の貸し出しを受け自転車操業に陥って、幕府の財政の破綻を加速させたのでしょうね。

また川島らの御用所運営は相良藩財務の逼迫に一瞬間は貢献できたでしょうがその時代の流れには到底抗うことはできなかったことかと。

 

そして今一つが川島の妻二人の件。

概略は昨日記した通りですが、推測の域を出ませんがそこに睦まじい「三人」の姿が想像できます。

相良藩勘定奉行としての川島の働きと彼の死を受けて五年。

妻たちそれぞれの思い、どうあったのだろう・・・などと歴史小説のできあがり・・・どなたか、うまいこと仕上げてくださいませ。

 

扨、豊田志賀町ブラつきの続き。

古瀬間城を浄願寺境内に下りると、お寺の屋根が見えます。①図中央左。

浄土宗の西谷院ですが卵塔の数からして古い歴史があるお寺とお見受けいたします(場所はこちら)。

その卵塔たちの居並ぶ場所の奥に一基の古そうな宝篋印塔が立っています。完全形ではありませんが、一部相輪も残っていて、ただそこにいらっしゃるだけで威風を放っています。

ありがたいことです。