松平弥三郎宗忠墓所 浄願寺

 

ボランティアなる語を聞けば「すばらしい心がけ」として感心させられます。

自分の時間を他者の為に奉仕「尽くす」ことですが並大抵の労力ではないでしょうね。仏教でも慈悲の実践として昔から高僧たちが取り組んできたものです。

 

最近は高校・大学ででボランティア部なる活動があることを聞きますが先般そのボランティアに向う若者たちについて聞きかじったことがあります。

それは大きな意義があることですが、いとも簡単に挫折し時にトラウマとなって精神的なダメージを被るということです。

要は思うほど美しい人助けとは違うということですね。

それはそうでしょう、究極の困窮と苦痛を背負った人々に勝手な慈悲の心を向けたとしても「違う」と思われてしまうようです。

若者たちはとかく経験が薄い。

現場に出たことが無いこれがデビュー戦のような子供たちが時に罵声を浴びせられありがとうの言葉の一つもない殆ど戦場の様な場所にお気楽気分で「人の為」と向かって逃げ帰ってくるということですね。

泥だらけになって食事や風呂は被災者第一に優先、その覚悟というものが必要です。

 

扨、昨日記した浄願寺の奥に墓塔が数基見えました。

あっちこっちから素材を組み合わせたような姿に見えますが

松平弥三郎宗忠墓所の標が。

宗忠は松平信光より分かれた長沢松平勝宗の子といいます。