浄願寺鐘楼山門と堂内阿弥陀仏ちらり

 

昨日日曜日には3件の法務がありましたがそのうち1件、浜松霊園での墓前法要は息子に向かってもらいました。

当初土砂降り予想で、彼には「ズブ濡れでも笑顔で行ってくれ」と依頼していましたがその頃は完全に雨があがっていました。ありがたいことです。

 

私は法要が1日複数の法務というものがいよいよ辛くなってきましたので彼が代わりに行ってくれることは頼もしい限り。

いよいよ寺の戦力として計算できるようになりました。

しかし伐採や片づけ、メンテナンスの手助けフォロー依頼の呼びかけには顔を出しません。

法務よりも私が行っている「雑務」による維持作業が本題であることも伝えて行かなければなりませんね。

そこを「他力」(一般的な)で済ませていては出費が嵩むだけですからね。

 

「辛くなった」というのは喉の具合のことです。発声の質も悪くなっているような気がします。

昨日も2度目の法縁の正信偈拝読の際、突然声が出なくなってしまいました。それには相当焦ります。

何とか復活するという妙がありましたが、御一同にもハラハラにさせることになります。

 

その症状の発生頻度が高くなったこと、そろそろ「いい加減すっこんでろ~」と声があがって来そう。

ただ風邪の症状の様な気もしないではありませんが。

それはそれで困ったことになります。

様子見て彼を呼びつけるという選択も視野に入れています。

 

扨、「他力」は誤解の多い言葉であり当流の「他力本願」という熟語にするともっと批判的イメージを抱く方がいらっしゃるのでまた困る。

困るといえどもそれこそが私ども真宗の本貫となる教えです。

以前もその件、かつての「オリンパス」社の無知の露呈、それに対して本山の抗議文まで出たことを記しましたが当流はその意の解釈について特に敏感です。

要は「他」とは阿弥陀仏以外ほかでもなく「人」に対してではないということ。

要は仏教の語が独り歩きしてしまったのでした。

 

そして「悪人正機」というのも当流の看板。

悪人だからこそ阿弥陀仏の救済の第一義、対象になるということですが、だからこそ自力作善ではお手上げであって阿弥陀に(他力に)タノム(まかせる)わけでそれにはお念仏・・・という構図が出来上がるのでした。それも大いに誤解を招きます。

 

まぁ善行を重ねることに意義を感じ生きる(自力作善)という他者の考えはそれはそれでヨシ。これは善を以って救われるという考えですね。

しかしその善というものの捉え方は人によって違うのです。

歎異抄四条の語を借りれば「すゑとおり」がナイわけで・・・

まぁそれは自分本位の「善」であるということ。

 

そして「自分を信じて」のことば。よく耳にします。

私はこれだけはどうも好きになれませんね。

 

何故ならば何度かこちらでも記していますが「私自身が一番に自分を信じられない」からですね。

まぁ煩悩のまゝ動いていろいろやらかす私があるからですが、それは一言で言えば、良いこと(善)である、これこそベストであるの様々な「思い込み」から発するもの。

「錯覚」ばかりの夢見心地で生きているが如くの私を信じようがありませんからね。

その思い込みによって、まま人を傷つけ失敗を重ねまくる私(悪人)があるのでした。まぁこれは死んでも治らないでしょうね。

 

同様の件、適宜ブログに記すのは私はバカだからなのです。

幾度も幾度も繰り返しその件、立ち止まって記し、私自身に言い聞かし自分に問うことが継続的に行われないと・・・忘れるから。

そして「阿弥陀にまかせます」の念仏を唱えることは欠かせません。

 

昨日は法話の時間の中で「自力作善」とは「ウオッシュレットのボタンを押すようなもの」と。

自分自身のお尻のために・・・

表現が下手クソで申し訳なし・・・

 

因みに「自分を信じて~」が嫌だとして何がいいかを思量すれば「普段通りに~」「ありのままに~」「自身できうる限り~」がいいな・・・。

まぁその言葉(自力の自分教)がお好きな方はご自由にどうぞ。

それを「悪い」というのも私の言いがかりかも。

 

画像は先日記した浄願寺の山門を再び。

あの門は素晴らしい。

あの椿三十郎も鐘楼に上がって居眠りができそう(映画のストーリーの中では彼がでっち上げた話の寺の山門は茅葺で二階建てではなく「そこで居眠りしていたら~」の大嘘はバレてしまいます)。

こちらは実際「二階建て」。