相良藩勘定奉行川嶋清右衛門重固 田沼玄蕃頭意尊の時

 

暖かさのおかげで屋根の上にてアンテナ基盤の設置と調整を。

BSアンテナのベース部分が腐食し最近の超強風でアンテナの方向が維持できなくなって衛星放送が視聴困難に陥っていました。

その手の仕事は風のない穏やかな日でなくてはムリな話ですからね。またやらなければならないことばかりでやっとこ昨日完成できました。

これはテレビの前で待機する奥方とアンテナを固定する私が携帯電話を繋いで調整しました。

 

その後は課題の一つでもあった境内墓碑の掲示板を二基設置。

1つは成瀬蔵の息、成瀬鼎の墓碑の掲示板の修復です。

その紹介掲示板が腐食して倒れたのが昨年の夏のことでした。

昨年春にマダニにヤラれたこともあってこちらの笹の中に入ることを恐怖に感じこれまで放置していました。

今一つは川嶋(川島)清右衛門重固とその家族の墓の紹介掲示板を立てました。

彼は後期田沼、田沼玄蕃頭意尊が藩主になった際の勘定奉行です。

 

そのあと1件だけですが法務に出かけて帰った際、駐車場から出てきたであろう見覚えのある女性が墓地裏側に入っていく姿を見送りました。

確認するとやはり…

その方が静岡市在住の松永氏。 

川嶋(川島)清右衛門重固から三代―清次郎重基―新太郎重之の三女が水野家―松永家と女系で繋がっている子孫の方になります。

新太郎重之には女子3名の名がありましたが男子不在のため弟の重代に三女を嫁がせて家の継承を図りますが生まれた子に男子はいなかったようです。

よって現状その墓は世間一般で言う「無縁墓」のくくり。

それから明治よりこれまで放置されていたということですね。

その存在を知っているのは殆どこの寺の私だけかと思っていましたが・・・昨日の史蹟調査会発刊のものにはその所在について掲載されていました。

 

その松永氏が昨年夏ころ突如拙寺に訪れて、川島家の縁者末裔の者として墓をキレイにしたいとのご提案をいただき、その意の通りにおまかせしていました。

昨年末に息子さん同伴で来られて改修が完成していました。

私もそのご厚意に応えるべく看板を立てたのでした。

 

そこへ偶然にもその松永氏が参拝に訪れたということですね。

不思議なことがあるものです。

 

墓場と歴史がお好きな方はそうはいらっしゃらないとは思うものの拙寺の古い墓を探し出して今後紹介の看板を記して行こうかと思った次第。有縁無縁関わらず墓の掘り起こし・・・結構面白そう。

 

※ 2024年1月26日 掲示板文言訂正 追記しています。

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (金曜日, 19 1月 2024 08:31)

    「御要所」という文字とは知りませんでした。
    ただ「ごようしょ」という場所だと思っていました。
    ひとつ勉強しました。すぐに忘れると思いますが。

  • #2

    今井一光 (金曜日, 19 1月 2024 18:26)

    ありがとうございます。
    大変失礼しました。
    「ごようしょ」は「御要」ではなく「御用」が正解でしょうね。
    時間をみつけて修正いたします。

    私もこの語について耳に馴染みがないものでしたが昭和の前・中期あたりまでその語が
    会話の中に出て来ることもあったようですね。
    私は昭和でも40年後半から数年居ただけでしたので聞き覚えはありませんでした。

    こちらの掲示板の件、資料より転記したのでしたが、その設置が「百花」とあります。
    そこで百花の通り沿いの植田生花店の主人に聞けば、その語は半世紀以上前のこと、
    その方の母親の叔父にあたる方(私も存じ上げる方)がよく「ごようしょの叔父さん」と自称していたといいます。
    その方の住まいは本通りの鍋屋さんの北側辺りだったといいますので、むしろその場所の方が「ごようしょ」の位置として受け入れ易いかと思います。
    百花というと長屋のイメージがありますがそこから横町にかけて代官所もあって公的機関があったとしても不思議ではありませんが。