設楽原歴史資料館を歩けば思い出交錯

能登半島の超絶荒廃の図と多数の孤立村落とその人々の数が報じられています。

思うにその地に伝わる「地震の歴史」というものについてその有無、そしてどういった伝承があるのか知りたいものです。

地震には地震学者が言うようにその発生のスパン(時間の幅)があるようでよく「そろそろヤバい」の声があがったりします。

100年200年あるいは500年1000年の如く大地震発生の予知に使用されるそのスパンですが大抵は直近の大地震から〇〇年というカタチでその「ヤバい」が伝わってきます。

 

そして活断層の調査についてこの地区については専門家から調査未達とのことを仰っていましたが要はその辺りについてロクな調査もされていなかったということではないでしょうか。

当然に調査にしろ研究にしろ優先順位というものがありますから裏を返せば後回しということ。

「人少なし」=「緊急性軽微」という考え方(表立ってそれは口にできません)で当然に首都圏や人口密集地、国内物流動脈の走る東海道へのウェイトが高くなるでしょう。

 

よって被災多大な能登半島北部の現状、半ば見殺し的放ったらかしに見えるが如くの様を見て今後の国そして経済界のスタンスをまた思います。

「あまり深入りできない」でしょうか。

何よりそこに住まう人々が太平洋プレートの端にあって周辺活断層が次に動くことを考えると、そこに居る希望が喪失しかねないということですが、若い世代となれば尚更の事かもしれません。

 

散々に地震にヤラれて(これは私どもの住まう東海地区も同じことですが)やり直そうという気が起こるのか・・・と。

人々のヤル気が失せた所に「再建」を旗印に大風呂敷を広げたとしても果たして・・・という疑問ですね。

よって「少々の支援はするが前がかりの投資はできない」という感じ。

それが国のスローな対応に出ているのかも・・・などと見てしまいました。

 

訓練ではヘリコプターからの降下や大型機材等を吊るしての搬送を見せつけられていますが、何故か「大変です」の様で彼らが山道を物資を背負いながら歩く姿が映し出されています。

被災の為の救援実利より彼らの鍛錬(訓練)の延長を思ってしまいます。

米軍に頼めば彼らは効果的に物事を進めますから痒いところに手が届くはず。その依頼すらしていないように見えます。

グズモタの施策、見ていて不愉快にされますし東日本、熊本の学習ができていないよう感じてなりません。

 

パー券だキックバックだ政治屋が私腹を肥やすまま怠慢になったリスク管理、タイホするだけでなく能登半島にまたぞろそのバカバカしい濡れ手に粟のカネを廻していただきたいものです。

拙寺の微々に拍車を掛けたような浄財1か月分からすれば遥かに多くの命を助けられるというものです。

 

画像は設楽原歴史資料館の展示物。これまで多種の素材をアップしていますが大概の品物は撮影OKです。

①を見ると私が小学校か中学だったか図工の課題「オルゴール」の蓋を思いだします。

彫刻刀で何か好きなものを描くというもの。この旗を見るとその時の教師の完無視ノーコメントの顔が思い浮かびます。

私のドベタさ溢れる彫刻で評価に価しないということもありますが、きっと教師にとっては意味不明理解不能に感じたこと大いにあるかと。

拙ブログでもその件記したことがあったかと思いますが、その表面には武田菱の家紋と「風林火山」の4文字を彫ったのでした。

 

「あまり失礼なことを御云いでないですよ・・・」と御叱りを受けますが「そんなもの・・・」(教師)というのが最近了解できるようになりました。

「どうでもいいこと」なのですね。歴史など、人によっては・・・

相良小学校の小島蕉園の碑について記しましたが先生たち、みなさまその人のこと、ご存知ですよね。

歴史を紐解くことは未来の生き方の模索でもありますから。

 

そして②は実に面白いと感じるもの。

敵か味方くんずほぐれつの混乱接近戦の中、仲間をハッキリ確認できるようにその標として体のどちらかに付けたものといいます。

まぁそれだけ接近戦で味方同士の殺し合いが発生していたことの証左でしょうね。

乱戦の折、それが脱落したらと落ちた標を付けて本陣に進入することもあり得た筈でその辺りの件想像してしまいます。

当然にスペアも持参していたでしょうし種類も多くあって日によって変えていたなどあったのかも知れません。

 

③は極楽寺址から出土した瓦。

設楽原極楽寺といえば信長が当初こちらに入った際の陣ですが私がそこを探索した時、藪に隠れた深い排水溝に危うく落ちそうになったことを思いだします。

 

設楽原には色々な思い出が交錯します。