首洗池直近東弾正山南端丘の上 岩手左馬之助

 

飲まず食わず動けない状態で救出待ちしている人の生存率が、急減するという境界「72時間」が地震発生から過ぎたのですが、未だ行方の分からない方たちが能登地方に多くいらっしゃると。

要は地震による建物崩落に巻き込まれて、下敷きになっている・・・かも知れない人多数ということです。

 

よってその「72」という数字にこだわるわけですが、ソーリ殿がいくら「寄り添って」と御一同コスプレ風かつ晴朗な作業着風を纏って如何にも希望的なことを仰っていただいたとしても現実は殆ど見殺しに等しい有様。

まぁ次は瓦礫の下でその時間を過ごすのは私なのでしょうね。

冷たく暗く重たい瓦礫の中、その美しい言葉の数々への恨み骨髄より、ただ脱力してひっそりと息を引き取るのでしょう。

やはり多くを助けられなかった自称経済大国の現実。

 

大災害だから仕方ないと云うこと勿れ。

さんざんその件学んできたはずで「その時」どう対応するかシミュレーションして(おカネをかけて)きたはずです。

道路が寸断、陥没崖崩れの発生によって地区孤立化してしまった時・・・どうするかということ。

 

それにはヘリコプター等の機敏な小型航空機の出動が期待されるわけです。いつものド素人の発想かも知れませんが・・・

しかしそれらの活用がまったくのゼロとは言いませんが相変わらず救援の手が届かない理由にその「道路」の件とその「修復を早く」について語るのみ。

小学校のグラウンドのSOSを見てそう思ったのですが、被災者の一団が避難するその手の場所には広い着陸エリアがあるものです。

 

飛行訓練だとかで日頃出張ってあっちこっち飛び回っている姿を見ていますが、日本全国、自衛隊、国の管理するヘリコプターはたくさんあるはず。石川の知事殿も東京からお気軽にヘリを飛ばしてきたくらいなのに。

それらを小松基地に・・・集結させてドンドン活用させれば「いいのに~」などと思うところ。

極論あのオスプレーを飛ばして資材食料を搬入したとしても文句はそうは出ないでしょうが。

そういう決断ができてこその指導力なのですがね。

不名誉の数々、それを挽回するチャンスがそこにあるのに。

歯がゆい男。だめだこりゃ。

 

扨、設楽原決戦場、連吾川を挟んで両軍対峙した武田軍隊列背後の台地を弾正山と呼びます。

右手右利きの文化の色濃い我が国の傾向としてその軍列の火ぶたが切られる際の一気呵成は隊列の右の突進にかかっているとよく言われます。

右側から敵陣(敵から見たら左側)に攻めかかって敵の隊列を崩し、空いたスペースから中央に向かって抉り一気にゴールへ雪崩込むというチームプレー。

 

以前、待ち伏せについて「右翼に気を付けろ」と記しましたが正々堂々の決戦隊列では相手の左翼狙いが常道。

要は左側の隊列へ、さらに廻りこんだ左翼横腹と正面からの二面三面の侵攻。振り挙げられた「右手」の刀槍に対し守勢は右手での防御を強いられることになり劣勢となりうるという面があるということ。半身になって右手で応戦するには分が悪いですからね。

 

武田方もそんなことは百も承知、正面の徳川勢に山県に原など歴戦の雄を配していたわけですが、彼らは武勇に溺れたのでしょうか敗戦覚悟の水杯もありましたが、中心の指揮系統が殲滅させられ武田軍は弾正山台地を徳川の攻め手に背を見せて駆け上がりいわゆる総崩れの憂き目となりました。

 

この台地の東端、あの首洗池に降りる手前に二つの石塔があります。

墓標は新しく設置されたもので一つが岩手左馬之助、そしてもう一つが岡部竹雲斎の墓です。

 

「長篇長篠軍記」の表現を記せば

「東弾正山に押し寄せた徳川勢は大須賀五郎左衛門康高、菅沼藤蔵定政、三宅惣左衛門康定、菅沼小大膳定利、戸田三郎衛門忠次、高力権左衛門康長等元気旺盛」

 

岩手氏は清和源氏義光流(Wikipedia)。山梨郡岩手郷に住したため岩手を称しますが岩手縄美より武田家親類衆になります。

設楽原敗走の勝頼配下岩手左馬之助胤秀は当然に参謀クラスといいますが天正十に天目山勝頼滅亡の際やはり勝頼に従って死んだ岩手信景という人があってそれと同一人物か兄弟なのかは不詳とのこと。

一族は信玄の一字を拝領するならいがあったことが窺えますが

当時名のりは複数あって当たり前の時代ですから複雑です。