瓶割山 山道を歩きながら思う 宗旨の違い

 

以前、そう10年近く前になるかと思いますが、県の仏教会主催の戦没者法要か何かの寄合で、待合室の遠くの方から「親鸞が悪いな」などいう語が耳に入ってきたことをブログでも記した覚えがあります。

私としてはあまりに無作法な言い草・・・、もっとも何気ない駄話の一つだったのでしょうが、そこには真宗の坊さんなど同席していない、居たとしてもたかだか見知らぬ寺の若造だろう程度の軽口を思いましたが。

多くの御同輩が囲んでいましたからついついお調子にのっていつもの通りのおしゃべりの続きという具合に。

 

だいたいあの集団の中で有髪の黒衣(私)は目立つもので、「知らなかった」ということではないでしょうね。

忘れられない出来事でした。

中には私の存在について承知している他流のお寺さんたちもいらしたわけでそういう方々はその語を耳にしたときさすがに絶句していましたが。

まぁ他流の住職連の心中は「そんなものか・・・」などとどんよりした複雑な気持ちになったものです。

 

かといって私がどうこうと反論したり問い詰めて睨みをきかせたりしたでもありません。ただその場では変な空気が一瞬流れたというだけです。

 

しかし思うにあの手の特殊な寄合の場で他流の御開祖の名をあからさまに「〇〇が~」などと論うなどのことがあるものか・・・と疑念にも思ったのでした。

それは偏に親鸞さんの教えがその方の今の仕事の障害、やりにくさに繋がっている、もしくは下賤な言葉に代えれば「商売の邪魔」であるかの如く主張かとも思えたのでした。

 

先日は教区の門徒寺住職たちが集まる寄合で来年の教区主催のイベントに落語家を招いて親鸞にちなんだ話をしていただく会の準備についての詰がありましたが、会参加募集にあたり門徒さん限定か、広く一般に呼びかけるかというところに論点が移った際、私はその他流の親鸞への無意味とも思えるその感情論で吐かれた言葉を素直に受け取れば、我ら御開祖「親鸞」への「畏れ」というものを感じとることができたわけで「ここは一つ」告知を含めて大いに一般に周知、宣伝すべきである旨意見させていただきました。

 

桂小春団治 公開寄席

日時 2024年6月15日(土) 開演14時(予定)

会場 掛川市生涯学習センター

入場無料

 

扨、瓶割山の登城口あった滝の件。

実はそちらにはその滝についての所縁について、キレイに仕上げられた掲示板が設置されていました。

拙ブログにはどうでもいいような内容と心得て割愛しましたが、そもそもこのブログは私が示威的思うままに記しているものですので、どうこう画像をアップするかしないかなど私の勝手自由ですからね。

 

その掲示板によればどうやらその辺りは近隣某寺院の管理が及んでいるようで、その滝の所縁として掲示板に「某人夫妻はかねてから浄土真宗の門徒であったがその妻が長患いをし夫がその病を治癒させるために各各労を重ねたものの果たして結果は悪くなるばかり。

そこへまたある人からそ水を妻にかければ病は改善するといわれそれを妻に。するとたちどころに病は消え失せて悦び夫妻は真宗を捨ててそのお寺の檀家さんになりました、めでたしめでしたし。」というようなことが記されていました。

 

ニヤリとしながら、ある意味納得しつつその城山に取りついたわけでしたが考えるとやはりこちらは「近江門徒」と言われるくらいの浄土真宗が繁盛する地。

そちらの宗旨主催寺院としては「何とかしたい」という意図などあったかも知れません。

しかし私が山道を歩きながら思うところは仏教は釈迦の「四門出遊」からという思いが沸き起こります。

生老病死の無常は人間が生まれながらにして背負っていくべき重大なる課題。

それがその水によって病が改善されるなどの件、強烈なる現世利益を感じるわけで。カルト趣向の地盤を掘り起こすが如く。

浄土真宗的感覚からは程遠いところというかそもそもの「仏教」とは乖離しているような気がして。

ただそれはそれでその「信心 まことのこころ」を向けるのは個々の自由ですが。

 

まだまだ私は勉強不足。

他流からいえば「修行が足りない」と叱られそうです。

かといってその修行・・・さらさら向かう気ナシの生臭坊主。

それが何の事かも私にはわかりませんので。

日に幾度かの口称はありますが・・・。

まぁ違いがあってこそ。結構なことです。

 

画像は瓶割山から。

ペット用の掲示板は拙寺御門徒さんのお仕事の広告。

昨日新規に設置したとのこと。