小島蕉園の息子 小島全からの礼状 甘い物十分

これだけ暖かいとあの厄介な奴・・・蚊です・・・の登場。

就寝安眠を毎晩邪魔されています。

昨晩はたまたま振った「蚊ーゲット」(ラケット型の電気式退治機)の一撃で仕留めることができましたが、たまたまの偶然、就寝前に予め夏用の対策を復活させなくてはなりません。

 

というワケで昨日は好天無風。

まずは前日の降雨にあわせて当家墓地の納骨室の上部に敷いていたブルーシートを外すことから。

昨日は納骨法要がありました。

コロナやら何やらで日延べしていた法事ですが神奈川県から

5名ほど、そして息子が浜松から合流してその法要の導師を勤めました。私は最初から石屋さんの仕事オンリー。

下陣にいて焼香、息子の声に只管耳を傾けました。

一同、息子の導師の件、サプライズ。私も奥方も発声もなく興味津々。

彼の拝読を、ただ「聞く」ということは初めての事でした。

 

納骨終了後「上手いもんだ」と褒め「これで何時くたばってもOKだ」「俺らはここのどこかに入れてくれ」と彼のこれからの仕事を指示。

また、拙寺親鸞さん後方の「一所一處墓」と大谷祖廟の分骨もタノムと。

 

そりゃあそうと既に「死にしそう」です。

昨日だけで③の通りのお供物、甘いものだらけになりました。

糖尿病一直線の道ですね。

それがわかっていても卑しい身、やめられない。

 

それから皆で榛原の施設に叔母に会いに行くことになりました。

突然の思い付きでそちらに向かい始めた車中、施設に連絡。

すると予約なしにつき「中には入れられない」とのこと。

コロナとインフルで相当懲りているようでした。

というわけで我々一同は外から。

内線電話の端末を渡されガラス越しに面談完了②。

 

「ニコニコしていて呆けてない」それ一同の観想。こりゃ100まで生きる・・・(これは本人の希望と予言)

「ニコニコ」は長生きの秘訣ではありますが、「生」のバロメーターでもあります。痛かったり体調が悪かったらニコニコしていられませんからね。

 

扨、私の墓の件、次に伝えたところで大いに安心。

その安心について、昨日ブログ「祐厳唱酬小島蕉園」を記しましたが小島蕉園の葬儀について息子の小島全が相良の人々の厚情と安心、拙寺祐厳にその感謝の意として送った書面(礼状)があります。

 

前段の損傷が酷く、読み憎いためにしばらく放置したままにしていましたが差出人の小島全(修三)の名の通り、蕉園の子(養女の婿)ということがわかっていましたので、叔父に漢文の文字をおこしてもらいました。

 

而死故仁政未徧雖然死之日無人不流涕

 葬平田寺也土人植櫻花芭蕉供素好間

 竊聞又謀為建碑何情之厚也是猶子之

 於父母豈唯為平易之俗己嗟其為子為

 敵猶水能順其性則平流而有灌漑之

 利□□□驚瀦而為滔天之害皆由于

 我而非在于彼余有感目賦二絶謝其情之厚

 示後之為宰者云

精神全為報君疲欲済萬民航海危

思信未能及羊子土人於擬峴山碑

蒼生志業一時体萬事空追湘水流餘

得孤碑照千古當知民夫両心投

 

文政丙戌孟夏       

                                  小島全

 

 

小島蕉園といえば善政の人というのがそのイメージ。

 

「土人」とは当地では「葬儀を支援した地元の皆さん」の意ですが、それでよろしいかと。

蕉園の墓地は先日記した駿河湾に面した台地上ですが、当時は平田寺の寺域のくくり。

 

葬儀直後に小島全は植えられた桜と芭蕉に悦び、蕉園を讃えた碑を建てるということに感謝しています。

ポイントは最初の「仁政」と「両心」の語の対比。

仁政とは庶民に対して思いやりある政治。

それに反して「両心」は・・・二心でしょう。

要は「庶民の為といいつつ自分の為」。

表向きは美辞麗句で庶民を讃え、ウラでは自身のために蓄財をするなどの腹黒さがあるということ。

 

それって「裏金」というヤツね。

身一つでやって来て(赴任)、転任するときは大八車数台で離任。

いわゆる悪代官の類。

しかし何といっても蕉園の「キックバック」とは庶民に対してのものでしたからね。

 

ふっと思ったのですが案外小島蕉園を大河ドラマに・・・なんていうのも悪くないかも。

「また寝言を言ってやがる」と奥方は笑いますがよ~く考えてみればそんな善政仁政の政、そうはありませんからね。

そういう人がいたことでも教えてあげるべき。

特に今の両心の政治屋さんには。

 

まぁドラマ化などしたら拙寺祐厳ほか寺そのものも出演しちゃうかも。

奥方は「そううまいこといくものか!!どこまで御目出度いんだ」と呆れ果てていました。

「今の相良の人は殆どの人が知らない。それなのに全国でどれだけの人が知っているんだ」と。

一昔前は相良の人も全国の子供たちも(教科書に記載されていたといいます)知っていた偉人なのに。

当時は「政とはそういうものだったが今は違う」ということなのでしょう。

 

「文政丙戌」は文政九年1826。

小島蕉園はその年の1月に亡くなっています。

葬儀が執り行われてから「盛夏」とありますがその半年後のお礼の手紙だったということですね。