設楽原 富沢公民館の隣 壇上の古仏たち

 

午前の終わり、昼前に北西風横殴りのまとまった雨がありました。テラス2階の雨漏りの有無を確認にそちらにいた時でしたので(漏水ナシ)、その「豪雨」によって暫しの間待機していました。

その雨はものの5分程度でやみましたが、そのあとに本堂北側の障子を確認に行けば、床と障子に相当の吹き込みがあったことがわかりました。

障子は余程のことが無い限り乾けば元通り。多少の破けがありますが、何とか誤魔化せそうです。

 

扨、設楽原を以前フラついた際の画像をここのところ引っ張り出していますが、先日は川路-大坪-城-周辺石仏たちの少々を出して

周辺藪の中にはもっと・・・の推測を記しましたが、おそらくそういった石仏―墓・供養塔―は時代が経るとともにどちらかに集積されるものです。

 

大きな大戦が起きた場所であり、後世になってその縁者、関係者が伝え聞いていた現場を歩き、想う人の死地に花を手向け、石仏を備えて「また来ますよ~」と別れを告げたのでしょう。

それがそれぞれの想う場所にそれぞれの標を据え置き、土地所有者に地代と供養料を手渡したとしても時間を重ねるに従って忘れ去られていくのはやむを得ないところですね。

そしてある時、荒れた藪や畑を開墾している際に「こんな場所に石仏が・・・」となるわけです。

 

「発見」とはいいますがそのご先祖は当初了解していたものであって今はたまたま忘れられただけのこと。

そのような場合、寺か墓地に持ち込むというのがスジですね。

 

こちら富沢地区(場所はこちら)の墓地にはおそらく周辺の区画で「採掘」されたであろう古仏でしょう、ちょっとした檀上に並べられていました。