花沢町小御堂易往寺巨樹2本 好みの御文 易往而無人

台風13号の針路は少~しづつ西に変わってついに昨夕は私の住処をピンポイントに狙い撃ちしているかの如し。

ただしいつもの台風と違って私は高をくくって余裕の躰ではあります。

対策もまったくしていません。

「温帯低気圧に毛が生えた」程度というのがその私の勝手な見立てですから。

通過時には激しい降雨となることは予想しますが、大した風もないのでは・・・ただしそれは「私の事」。

河川近くや土砂崩れに見舞われそうな地にお住まいの方はご配慮あれ。

息子も再び週末、横浜での法事に呼ばれて高速を使用するといいますが、それはそれでリスクあり。道路がどうなるかなどまったくわかりませんからね。

「安請け合いするな」と言ったものの受けちゃったからには仕方ない。

 

扨、昨日の花沢町の小字「小御堂」には案の定「御堂」がありました。

それが当流の易往寺になります(場所はこちら)。

こちらの字名になったそのはじまりの道場が易往寺だったのでしょうね。

山号が「華林山」。

「花沢」という地の華の林・・・近くには「花山中学」があり花づくし。お寺の住職の名も「花〇さん」でした。

ヒヨクヒバとクロガネモチ、二本の大木がお出迎えしてくれます。

 

易往寺の「易往」といえば「易往而無人」。

御文二帖-七から。

 

しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり。

これおほきにまれなることぞかし。ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。

たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。

ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。

 

これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。

そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。

その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。

この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。

されば安心といふ二字をば「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。

あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。

これによりて大経には「易往而無人」とこれを説かれたり。

この文のこころは「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。

かくのごとくこころうるうへには、昼夜朝暮にとなふるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。

かへすがへす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。

あなかしこ、あなかしこ。

[文明六年三月三日これを清書す]