二十八歳病没 松平忠吉の墓 隣松寺

一夜明けて各地の被害の状況を目の当たりにしました。

当地でも先般田植えの図が記憶に新しいところですが、田んぼに稲が見えないくらいの冠水がありますが果たしてどんなものなのでしょうかね。全部が全部ダメというわけではないいでしょうが。

近くでは磐田・浜松方面の家屋の被害が報じられていました。

 

一昨日の晩、私は午前1時過ぎに庫裏から境内をみまわりましたが、その就寝直前に酷いショックを受けました。

以前から庫裏の西側で雨漏りがあって何度も屋根に上がっては修繕を試みていた箇所がありますが、その「いつも」雨漏りの場から10㎝と1.5mほど違う場所、2カ所からの雨漏りを発見。

 

ざっと対応してその後の対策を考えながら床に着いたのですが、今回は「雨量と風の強さ(サイドから吹きみ)」による影響が大であってしばらくして「瓦からではない!!」と勝手に楽観視、朝を迎えました。

また今度上がって目視、対応を考えることにします。

境内は一気に草ぼうぼうになっていてそろそろ「どうでもいい」と諦めの感。やること多すぎ。

 

午前11時からは法事がありました。

東京方面からの参拝の家族があるので大幅に開式が遅れる旨事前に施主から連絡がありましたが、東名は閉鎖されていることもあってどうにもならないことが判明。

予定通り11時からの開式とあいなりました。遅れて来られた家族は墓参り前に到着しましたが。

皆さんはトンボ返りでなく一泊して日曜に帰還するとのこと、ひとまず安心させられました。

 

扨、昨日に続いて再び隣松寺

隣松寺の今の寺地、境内の外の墓域の奥に於美津の墓がありましたがその方が養母となって育てた人が松平忠吉でした。

忠吉は井伊直政の婿殿で関ケ原での福島との先陣争いは有名なところですが、病没は享年二十八。

人望が厚くその死は多くの者に悼まれたといいます。

 

殉死者四名の墓塔も、残欠となっていますので管理の悪かった時代を通していることが推測できます。

そもそも忠吉の墓石も怪しいものがあります。バランスが悪すぎ、パーツ寄せ集めの様、元は宝篋印塔だったのかしらねぇ ?