松平十郎三郎康孝在城  浅井西城と白山神社 畔柳

お天気は最高「こうなったらこちらも・・・」ということで庫裏玄関と居間を隔てるガラス引き戸2枚のうちの1枚を軽トラ荷台に移動。工作に取り掛かりました。

例の地震対策、ガラスを撤去して木板に交換する作業です。

 

よくよく考えればガラスは通常は透明で美しい光沢がありますがその崩壊した瞬間に強烈な変化を遂げます。

鋭利で厄介な危険物と化しますね。なまくらな包丁などとは比べ物にならないほどの切れ味抜群、リスキーな代物となります。

 

「その時」の行動のリスクとなり得る物は「排除すべし」の奥方からの指令があったこと、先日記しました。

最近頻発している地震の報を受けて私も本腰をあげたというところですが、これは私的には「阿弥陀さんほか諸仏のお達しである」と解釈。

地震が発生しそのガラスが私どもに対する凶器になるかどうかは別としてそのお達しに「敬意を表する」というスタンスでもありました。

 

「増長して我を忘れる」などというのは人の大きな過ち。

テレビの世界で最近よく拝見するところですね。

自分の有様は常に仏に見られていることを念頭に入れて動かねば・・・ご指摘(今回は奥方・・・廬舎那仏・・・大仏の声)は素直に耳に入れて修正、改善すべきと。

さもないと「ザクザクの血だらけになって痛い思いをしますよ」の声でした。

 

扨、昨日記した源空院創建の松平十郎三郎康孝ですがその人が在城したのが浅井西城といいます。

まずは日本城郭大系から。

 

日本城郭大系

「浅井西城 西尾市西浅井町

松平康孝が在城した。三河一向一揆に与して廃城となった。

土塁の高さ5m、堀の一部が残る。」

 

場所はこちらです。

源空院①でも記しましたが古矢作川が南へ向きを変え東側は広田川安藤川と天然の外堀を成し周辺平地ながら城塞の立地としては最適でしょう。

その土濠屋敷の形跡は今は円形状の藪のように見えますが(家屋

点在)になっています。いわゆる国人領主の屋敷のスケール(100m✖100m)よりも一回り大きいような感じ。

土塁と堀を差っ引けばそのくらいになるのかも知れません。

近くの宿縁寺の住所地が「西尾市西浅井町古城1」というくらいで付近、古の雰囲気が漂います。

 

④⑤⑥と屋敷址の段丘をぐるっと回ったところ。

⑦の建設会社の名前を見て、なるほどね。

黒柳・・・畔柳姓は三河に多く見受けられる苗字です。

ちなみに後車の「畔柳」の「畔」ですがこちらは私も最近知ったのでしたが静岡の方言にありました。

「畔」は訓読みで通常は「あぜ」読みしますが「湖畔」の如く「ほとり」の意があります。

要は「隅っこ、端、きわ」という意もあって当地では隅っこの事を「くろ」と言います。

 

私の同年代の遠州人ならば誰もが知っている方言のようですが「クロヤナギ」氏の元はといえば「黒」ではなくて「畔」だった・・・などとも思いつつ三河の墓地を歩いたものでした。

「柳の木が隅っこにある地」の方が説得力があります。

大小河川に囲まれてランドマークになった柳もあったのでは。

 

⑧~⑪は源空院近くの白山神社。

こちらにもその名を拝見。また、この内藤氏の名もよく拝見します。

松平氏の息がかかる地で白山神社との覚えは私の記憶にありますが「阿弥陀如来を本地」の件、少々驚きでした。