快晴の一日。
外仕事の時間が楽しくなる季節になりました。
ただし大失態をやらかしましたがそれもまた生きている証拠か。
なんとかなるだろう・・・それだけ。
一昨日、宗源院の墓碑に赴いたのは上記画像の石標を建てた報告でした。
境内にその手の、宗旨やら道場の本来の主旨(「ただ一向に念仏すべし」)から外れるような標はそもそも「不要である」との御指摘が「あるにはある・・・」ことは理解していますがお寺の存在についてそこを埋没させることは有り得ないことであると考えます。
その歴史をみなさんに知って頂くということも軽く考えるべきではないと。
祖父も境内に石山本願寺から帰った初代今井権七の件、大きな石標を建てて顕彰していますし。
寺は歴史の中で存続しているのですから当然と思います。
以下、何コレ?と思われる方用に記したもの。
本堂にでも置いておくことにします。
成瀬藤蔵正義と妻勒-釋尼妙意
大澤寺開基の今井権七の息子二代釋西念は大澤寺の前身本楽寺があった菊川平尾の西林寺(現在の堀之内幼稚園)へ入りました。
それは成瀬傳助(釋祐傳)を大澤寺三世として入寺(養子)させて
真宗の道場を継承させるためです。
成瀬傳助は家康家臣団の一人、成瀬藤蔵正義の四男です。藤蔵正義は元亀三年(1572)十二月の三方ヶ原の戦いで亡くなりました。
そののち正義の妻の勒は夫の菩提と戦没者を弔うために傳助を連れて菊川本楽寺に入りました。
正義の長男は尾張藩附家老として犬山城に入った成瀬正成と当家に伝わります(正義の弟の正一の長子とも)。
次男は勒(妙意)の口添えで掛川藩に寛永十六年(1639)に入った本多忠義(忠勝の孫)の家臣の片岡家に養子入りし片岡半右衛門を名のります。
勒は本多忠勝の縁者と云われその関りから差配したものと考えられます。
三男は日坂に帰農した成瀬の祖となり明治期に成瀬大域という書家を輩出しています。
本楽寺は高天神の戦いで家康方の陣になり焼失してしまいましたが、家康は相良大沢に寺地を確保して大澤寺を建立。
その後鷹狩用の相良御殿の建立に併せて大澤寺を新町に移動させました。
田沼意次時代に新町の大澤寺は焼失して現在の波津の地に寺地を確保、本堂が建立され現在に至っています。
三代祐傳(傳助)とその母妙意(勒)は相良に於ける大澤寺の基礎を築き、以後の本堂維持と焼失後の再建等の折々に幕府からの絶大な援助を受けてきました。
それはすべて成瀬正義が三方ヶ原で戦死を遂げた故の家康のはからいでありその奉公と功労に対する畏敬と供養の念が永きに渡って継承されてきたということの他ありません。勿論、檀家さん代々の力があってこそのお寺ですが、そのベースとなる継続的支援の大きさは格別でした。
今年はその三方ヶ原の戦いから450年を数えます。来年は宗祖親鸞聖人生誕850年を迎えることになりますが、その区切りとして今あることの「おかげさま」と御恩報謝の思いを石に刻み、常に報謝の心を表す標として境内に設置しました。
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