黒松と赤松 験松と播磨鋳物製造の火力 円光寺

先日は仏前にモンブランが添えられていたことを記しましたが昨日うかがったご自宅の御内佛にはショートケーキ風(ベースがスポンジ+生クリーム)のフルーツが散りばめられた豪華なケーキとコーヒーが。

この日は故人の七十五歳の誕生日になるとのことでした。

以前の「御供物」(白い饅頭)との違いに時間の流れの速さに「確実に変化・・・」を感じました。

 

コーヒーの香りと線香の煙が交錯する仏間にて、正信偈を拝読してから歓談。奥様の近況について尋ねると今「免許証の書き替え」でちょっとした右往左往があるとのことでした。

 

運転免許の書き替えは私も何度も経験していますが、高齢者免許の書き替えに付きまとう色々の件は初めての事ばかり。

その更新にはそれなりのハードルが設けられているとのことでした。

 

まずは更新手続きには事前に自動車教習所に行ってペーパーの試験と実地試験に合格しなくてはならないとのことで、その予約は「スグに取れない」ので「マイッタ」と。

9月に申し込んで11月の試験になったといいます。

それだけたくさんの試験合格のために列に並ぶ年配者がいらっしゃるということですが「こんなド田舎で車を取られたら・・・(生活ができない)」というのは当たり前です。

「教習所の新たな儲け口だよ」(政府の配慮)とも。

そして必ずそのペーパー試験に落ちる人が居るとのこと。

その方のお知り合いも「何で・・・?」という感じで及第点70点に及ばなかったと。

「どうするのですか?」と聞けば、何度でも受験機会はあって「傾向と対策」でもって対応。「受験用のカネさえあれば何とかなる・・・」と。

試験内容について聞けば叔母が施設で行っているタイプの様。

要は痴呆症の判断をするためのものですが、驚いたのはその手の試験用の「虎の巻」というか問題集も出回っているということ。その方はそれで「受験勉強」をしているといいます。

高齢者自動車免許の市場が出来上がっていたのでした。

 

その方はこれまでクラウンに乗っていて、最近それより小ぶりの普通自動車に変更したそうですが、実地試験は軽自動車だそうでその不慣れが「とても不安」だそうです。

以前は簡単に出かけられた浜松や静岡など「もう怖くて行けない」とも仰っていました。特にコロナで車での遠乗りを避けていたこともあるそうですが「すべての景色が変わっている」というのがその理由。

「いずれ私もその道を歩みます・・・」でした。

若いうちは「何でもできる」の錯覚をするものですから。

 

さて、安城赤松から桜井方面への道の続き。

昨日はその途中の貝塚とイチョウの木について記しました。

拙寺境内にもたくさんの木々がありますが、どちらに行っても大かな木にお目にかかるとつい立ち止まって見上げたくなるものです。

その大きさもそうですが屹立するパワーと生命力に神秘性を同じ生きものとして感じます。 

以前、ブログでも記したかと思いますが子供たちを集めて「ツリークライミング」なるお遊びを主導しようかと思ったくらいです。

まぁそれはケガだとかその対応に頭を悩ますことは必定のこと。「私らがやることではない」と奥方に叱られた思い出があります。

 

そのイチョウの大木からさほど離れていない場所に真宗大谷派の円光寺(以前は安藤姓)があります。

そちら境内には市指定記念物の黒松の大木とマキの木が紹介されていました。

 

黒松といえばかつて拙寺に巨大な松が境内墓地にあったことを以前記しましたが、それは当初の拙寺代々の墓標の「験」としていたものです。

人の亡くなった地あるいは墓碑の近くに何かその「験」(しるし)を・・・という発想は以前からあってその代表的なアイテムが「松」でした。

先日のブログでも荒川殿墓 寄近に同名墓験松あり」なる記述を紹介していました。

 

よって「黒松」といえば私は「クロマツは墓」のイメージでもありますね。

では「赤松 アカマツ」の方は・・・といえば今時といえばマツタケなのでしょうが、それはちょっと置いておいて・・・

 

先代の父の記した大澤寺「赤松」(石山本願寺退去後、今井権七と同行した五家の一)といえば三河赤松本楽寺から遠州に下向した者(石山本願寺から帰還したあと)が「赤松を名乗った」ようなことが記してありました。

 

その安城の「赤松」の地があの将軍殺しで著名な赤松満祐の一族が流れ着いた、なる伝承を聞いたことがありますがその満祐もやはり「松」好きだったようです。

墓験だけでなく古い屋敷には松ほど似合う木はありません。

それを所望したそうです。

 

美的姿勢の維持、手入れも頻繁で金銭的余裕がないと難しいということで最近はその松は伐られまくっている感。

まぁそれよりもマツクイムシが蔓延ってどこもかしこもボロボロではありますが。

 

その「播磨の雄」の流れが三河にあったということも面白いのですが、では①播磨で何故にしてその姓が起こって②今も赤松姓が姫路周辺に多いのは・・・ということを思います。

 

それが先日たつの市神岡町入野から見えた方が仰っていたこと 

で②は解決。

明治維新後の「平民苗字必称義務令」で適当に地元で一番と思われる「名」を誰も彼もが「適当に名のったから」だと。

 

「私の先祖は武士」(「赤松」の名のり)・・・の御説は疑問符が残るということでしょうね。まぁ日本中「そんなもの」なのですが。

 

では大元の「赤松」の姓は・・・といえばやはりその地に「赤松」が多く自生していたから・・・でしょうかね。

それはその方にいただいた「播磨野里『杉の道場』~ある真宗寺院の歴史」を拝見していて「なるほど」と思ったのでしたがアカマツにはクロマツとまったく違う性質がありました。

 

それが油脂豊富の材のためにその火力が重宝にされるという点でしょうか。

すると姫路辺りの旧名に「鋳物師町」なる地(昭和56年に京口町に改)がありました。

昔ながらの地名を変えるなど、きっと今の播磨人は後悔しているとことだと思いますがその時は「もはや鋳物師なんかいない」という理由がまかり通ったことでしょう。

勿体ないことをしたと思うばかり。

 

その町名からしてこの付近広範に「鋳物」を生業とする商いと流通があったことがうかがわれます。

鉄の原材料は中国山地。流通は瀬戸内海。

その鉄製品の歴史は古いものがあって生活用品の鍋・釜の類は特に有名で「野里鍋」などの名があったとのこと。

 

姫路市内の「衣川製鎖工業(株)」のサイトで拝見しましたが播磨鍋を売る鍋売りの口上

「播磨鍋買はしませ 釜もさふらうぞ ほしがる人あらば

           仰られよ 弦をもかけてさう」

がありました。

赤松あってこその産業の起こりでしたね。

 

⑤拙寺境内のアカマツはクロマツ同様、大切にしています。

燃料にしようなどとは思いませんが。

彼女(しばしば「女松」といいます)とは20年以上の付き合いになりますが大木化すると手入れが大変ですので2.5m程度にコントロールしています。

 

尚、「赤松の植生が多かったから赤松」は私の勝手なイメージ拡大かも知れません。

そして勿論「武将 赤松氏からの血統」という方たちも当然に存在するわけで。

 

また拙寺境内には他市町村で指定されている大木系よりもずっと大きいサイズの無指定樹木があります。

ヤッカミではなく、その事実だけ・・・。

指定されると勝手に枝払いができなくなってしまいますので面倒なことになります・・・。

 

①~④は円光寺にて(場所はこちら)。