拙寺と掛川広楽寺そして安城赤松本楽寺

町内所要につき午後、夕方近くになってから相良本通り方向へ。

昨日も「腹が立った」などとつまらないことを記しましたがその本通りに右折してスグ、イキナリ腹が立ってきました。

 

小雨交じりのバス停の前の歩道に数人が雨具とはいえない薄っぺらの何かを羽織って地べたにしゃがみこんでいました。

助手席の奥方が「あ~あ 傘もなくて屋根もなくてかわいそう・・・」と呟いていましたがその交差点際にバス停が設置されたのは最近の事。

彼らは近くの障がい者勤労施設の方たちでしょう、就労後に下り方面に帰宅するバス待ちの図だったよう。

 

あの静鉄の相良バスターミナルが廃止されてあっちこっちとバス停が振り分けられたのでしたが、まるで「取ってつけた」の如くの仕事の様を見ました。

当初「郵便局前」にあったバス停は今や撤去されていますね。

 

今やどこでどうやってバスに乗っていいのやら・・・よくわからないくらい。まぁ私の場合は車オンリーでそのお世話になることはありませんが。以前は静岡からお参りの方が新設された菅山バスターミナルまで「連れていかれた!!」という件がありましたが、とにかく相良ターミナル廃止の件、どうも私どもからすれば納まりがつかないこと多々ありますね。

 

そしてバス利用者といえば今や年配者と書生さんたちが主。

これまでは風雨遮蔽とベンチの備わるバスターミナルがあったのに・・・

経営側の事情はあるにしろ、弱者の環境は劣悪化していることは確かです。あとは気が向いた場所に棒切れを一本置くだけですからね、お気楽なものです。

 

さて、昨日は安田理深師のことばを記しましたが安城赤松の本楽寺堂内に掲げられていたものでした。

そのお寺は拙寺の歴史に登場する寺のうち切っても切れないものがあります。

拙寺初代釋浄了(今井権七)は近江武佐の広済寺門徒でしたが石山本願寺籠城後、顕如に従って紀伊に退去。本能寺で信長が滅した翌年の天正十一年に遠州菊川段平尾に開設した道場に戻り寺院として堂を建立していきますが、安城の赤松、本楽寺に居た叔父の祐寿を誘って遠州の地に赴いています。

 

おそらく初代浄了と叔父の祐寿は信長が近江から京都にかけて勢力を伸ばしつつあった頃(永禄・元亀)に近江を捨てて三河・遠江方向に布教と生活の糧を求めたのでしょうが、途中本願寺顕如の檄に応じて大坂に入ったという流れ。

祐寿も三河で起こった一向一揆での家康の始末の厳しさを目の当たりにして甥の浄了と遠州入りを決めたのでしょう。

 

浄了は吉田の東福田を経て掛川広楽寺と継承されていますが、その広楽寺の名称が元の近江広済寺の「広」と赤松本楽寺の「楽」を取っての寺院名としています。

尚、当「大澤寺」の相良大沢の地へ来る菊川時代の名はそのまま「本楽寺」。相良新町に移って(慶長九年)から院号として「本楽院大澤寺」と今の波津の地に移る前までは「本楽」の名を残そうとするほど縁の深い寺でした。