仏教 夢から覚める教え 不安を取り除くのではない

 いいお天気で腹が立つ・・・

それは11日12日の二日間、本来ならばお寺のバス遠足の日。

 

コロナ禍恒例となった「中止」の憂き目を今回もまた。

暑くもない爽やかな秋空の下、岩船寺から浄瑠璃寺へのお散歩はさぞかし楽しかったでしょうね。

それがまた10日までは雨ばかりでしたから尚更ですがまさに「してやったり」の日程だったわけです。

 

3年間同じ場所を尋ねる遠足の日程で最初の2020年春(緊急事態宣言  4/16~5/14 )の中止から数えて全6回の水の泡。

最初の中止の際、「残念」と仰っていたある方は既に故人。

時間が経ったものです。

3年と言えば「相当の時間だ」と改めて感じたのは昨日境内でお会いした方との会話から。

バイパス大沢インターから相良街区に下りてきた車に100円ショップ前で跳ねられてから療養生活が始まったその方は施設に入ったもののやはり、足の具合が悪く、補助具の力を借りながら歩を進める様がありました。コロナ禍によってようやく外出がゆるされたようです。

 

しきりに「家に帰りたい」と仰っていて、その気持ちは大いに理解できますが、さすがに無理でしょう。

施設や病院に一旦入所すると「(ますます)歩けなくなる」ことを父・母・叔母で体感していますがやはりその3年は重いものがありました。

なぜならば施設では入所者が「転倒しないこと」を一番に心掛けますので、「無理して歩かせない」ということ。

リハビリといってもかなり「ソフトな歩を少々」程度になってチャレンジ、冒険といった攻めのストレッチの類は絶対にありません。施設入所によって筋肉は衰えるばかりとなる構図。

 

お墓参りできてよかったです

・・・またね・・・といって車まで見送りました。

 

さて、表記は安城は本楽寺の本堂にある安田理深のことば。

「信仰」という言葉が際立っているのは安田師が真宗大谷派の僧侶でありながら仏教哲学者であったからでしょうか。

それは我々のレベルでは使用頻度の低い語ですが、史的な難し気なれど馴染みのある語に替えれば「一向専念無量寿仏」、難しく考えないで一言、「南無阿弥陀仏の名号」でしょうかね。

 

専念信心が無ければその「信仰」とは言えないでしょうから。

この二つは実は今巷を騒がす変な信仰から比すると真逆の立ち位置になるのです。

 

①困難が背負える肩を与えるのが信仰だ

②地獄に落ちても後悔せんというような勇気それが信仰の持つ 

 意味です

 

昨日も記しましたが自身不明の「幸福」とやらを求めて「地獄」を「ある行きつく場所」として厭い、それを避けるために財産をカリスマ教祖様に呉れる・・・あり得ないほどのナンセンス。不条理ではなく不合理。

 

また

仏教は都合よく生きられたら幸せだという夢から覚める教え 

 です。

 仏教は不安を取り除くのではなく不安に立つ教えです。

というのもありました(→東本願寺の時間)。

 

腹が立つのは凡夫の証拠。ただ「晴れた」だけを感じればイイのですがついつい比較対象を抱くのが私でした。

 

信仰も勝手自由とはいえあからさまな搾取の目的のみを追求する団体のその教えなど宗教とはいえないでしょうしその錯誤をもって信仰と考えている方を目覚めていただかなくてはなりません。

仏教の教え、私、もっとしっかりしなくては。