妙好人三河の七三郎 山中八幡宮百度石

仲間が集まってワイワイがやがやと好き勝手な雑談は楽しいものです。

しかし、その場所もそうですが、その「仲間たち」と思う者たちの中に誰が異種の者が混ざっているかも知れない・・・ということを忘れてお調子に乗るのは怖いものがあります。

 

以前も記したことがありましたが、私が十数年前に榛南仏教会主催の戦没者供養祭に相良地区の代表で赴いた時、何の話題からその語が出たのかは知りませんが、年配の禅宗の僧侶の口から「みんな親鸞がワルイのだ!!」と。

まぁ真宗の若造坊主が同席していることなど知る由もなく「つい出ちゃった」暴言とは思いますが、その際、他の御一同が固まっていたことが思い出されます。

 

私は、それだけ親鸞さんのインパクトが強いのだな・・・とその件誇らしく、また聞き流すだけでしたが。

敢えてその「悪い」について記せば親鸞さんの思考は阿弥陀さんの思考、そして阿弥陀の第一の考えは「みんなおんなじに」です。

親鸞さんの言葉を借りれば阿弥陀さんの下では「御同朋御同行」となります。

そして「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」(歎異抄第六章)の通りですからそれが「悪い」と思われることか・・・などと思う ワケです。

まぁ考えは色々あっていいとは思いますが我ら「持前の通り」(阿弥陀にまかせる)身にとっては「ちょっとね・・・」と同じ仏教でも案外と平行線となる思想の違いを思わさたものです。

 

さて、昨日はその「持前の通り」を発した因幡の源左の件を記しましたが彼ら如く市井にいる念仏者のことを「妙好人」と言います。

各地にその妙好人の筋金入り念仏者の阿弥陀さんの理解を示す言葉の数々が紹介されていますが、その中で「三河の七三郎」の話がありました。

 

声をあげて念仏しつつ畑仕事をしている七三郎と臨済の僧白隠さんとの問答の件です。

話はかわりますが、白隠というと駿遠では高名な禅僧で、明治期の拙寺の宝物録の中に彼の掛け軸が記されており、それが祖父の代に処分され今は寺に無いことを残念がっていた私がありました。

 

その三河の七三郎と白隠の問答は白隠さん側からはどうかわかりませんが、妙好人、真宗門徒側からすれば「してやったり」の感あって結構に知れたところ。

詳細こちらでは記しませんがご興味のある方は「三河の七三郎 白隠」で検索ください。

 

画像は昨日ブログ山中八幡宮の山の上。社殿とその奥宮。

ヒメハルゼミが生息する杜。

④百度石がありますが、今は神への願にそれをチャレンジする人はいないようですね。

勿論念仏者はその行為とは縁遠いものがありますが、人はその「持前」領分を捻じ曲げて時としてカネでもって幸福を望んだりするものです。

霊感商法のインチキ宗教に搾取される方が多いということです。

お百度詣りならば自身の健康維持にもつながるでしょうに。