雲母は「きらら」で吉良と雲英 雲母の産地 幡豆郡

やむことはないですね。

マイナーな牧之原という地を「超」が×3くらいつくほどに名を知らしめてしまった川崎幼稚園の不祥事ですが組織というものの脆さと、いとも簡単に崩壊していく姿を垣間見た思いです。

これまで築いて来た名誉も地元へ貢献してきたという自負というものも灰燼に帰したということでしょうね。

残ったものといえば恥と懺悔でしょうか。

 

それでもあの記者会見をもって全国視聴者批評家から激しいバッシングの嵐を起こしてしまうくらいの無反省を思わせる態様と無神経さからするとその懺悔の心はひょっとしてナイのかも・・・などと感じてしまいました。

弁護するとすればのんびりとした風土に醸成された人間の性質と高齢にありがちな無頓着さ。

 

東京五輪の贈収賄で挙げられた者たちの羞恥もそうですがやはり「70代後半は鬼門」とふっと思った次第。

まぁ「そこまで生かされたのだからいいじゃねぇか・・・」という意見もありましょうが、これから私がその「鬼門」に向かって順風なる人生を戴くことができたとしてその頃「どんな私があるのか」甚だギモンになります。

歳の重ね方にも責任があるということです。

あらためて考えさせられました。

 

さて、昨日お茶の水女子大学附属幼稚園の初代監事(園長)の 

関信三(1843~1879)について記しましたが彼は幡豆郡一色の大谷派安休寺出身の僧侶でした。

実はこちらのお寺の住職の姓は「雲英」です。

確かその「関信三」の名は改名3回目。当初は「雲英猶龍」と名のっていました。

明治政府のキリスト教宗旨探索のスパイ活動に投じられた際の変更と思われます。

 

ちなみに寺の継嗣となった彼の兄が「雲英晃耀」(きらこうよう画像⑤)です。

やはり明治のキリスト禁教と廃仏毀釈の中で起こった事件、三河大浜騒動の事後処理で動いた真宗学者ですね。 

しかしこの名「雲英」は奥が深いというか、初めての方は読めないかもしれません。

 

今年は石川台嶺の企画展があった西尾岩瀬文庫(こちら)でしたがそちらから東へ古矢作川を渡って幸田方面に向かいますと、その川の手前に低めの山があってそれが八ツ面山。

今は廃坑になっていますがかつてこちらは雲母の採掘がされていた地でした。

古くから幡豆郡と言えば鉱物の「雲母」だったわけで。

 

この雲母、地元の古い呼び名が「きらら」。

今は「西尾」と呼ばれる地ですが以前と言えば「吉良」ですね。

年末お馴染み、忠臣蔵の悪役「吉良」です。

ちなみに西尾でその吉良の悪口を言ったら白い目で見られることは間違いありません。

「あのストーリーはすべて誤解」。演劇によって演出、吹聴されたもの・・・ということです。

 

ということで吉良姓の発祥は地元の産物として「きらら-雲母」が有名だったから・・・と言われます。

世間にその名を知らしめていたことがわかる記述が、「参河史」の産物を紹介しているところにあります⑦⑧。

続日本紀から始まるという歴史の古さよ。和名「きらら」も。

あのキラキラに魅了されていたのでした。

 

そして奥方が「それこそキラキラネーム」と驚愕した名のりの変遷ですが「雲母きらら→吉良きら→雲英きら」にはやはり感激させられます。

雲英晃耀師の名を眺めなおしてみれば「きら きらきら」の様

まったく凄い並びです。

 

初めて来訪した際、あまりに感動して失礼ながらも庫裏の表札にカメラを向けたことを覚えています。