片岡半右衛門は不明 法多山一斗缶盛に歴史を

天気予報で「ドカ雨が降る」と脅されていましたので朝イチで地頭方の処理場に向かいました。

福井・石川・新潟から東北にかけて濁流が溢れかえっている図を見せつけられたというのが昨日でした。

これから「雨が降りますよ」など、まったく信じられないくらいに晴れ渡っていました。そして午後にかけて雲には覆われましたが、雨降りには至らず。

 

そうなら松の剪定の一つもできたかも・・・とは思うもののどうこう言いながらMLB放映視聴の時間を過ごしていましたから「しょうもない !」。

 

さて、昨日記しましたよう一昨日は袋井方面に向かったのでしたが、私のその「ついでに・・・」と立ち寄ってもらったのが法多山でした。

高天神城まで出て北上、小笠山を西側に廻ってのコースです。

以前にも記しましたが一般の人たちが使用する繁忙期大渋滞の道の真逆側。裏道です。

いずれにしろ境内はガラガラでしたが。

 

この辺りでいうそちらのお寺のイメージと言えば「だんご」でしょうかね。

私も団子は嫌いではありませんが、それはみたらしか醤油限定、餡まみれのそれをわざわざ購入に行ったわけでも、また厄除けの祈願・・・でもありません。

 

話は逸れますが、よく人は都合の悪いことに対して「厄」と言ったりしますが当流にはその感覚は皆無です。

それは「まさかの坂」と「四苦八苦」のことを言うかと思いますが、まぁそれが「もれなくついてくる」というのが人生であって「避けることも落とすこともできない」のであるから(感謝と反省のもと)「つきあっていくもの(生かされている実感)」。

真宗は絶対他力「如来にまかせる」という宗旨ですからね。

それ(厄)に理由を求めようとするからみなさん心がぶっ壊れる・・・

 

学生時代はそれを麻雀用語にシャレて「役が無ければアガれない」とその語を笑いながら一蹴していましたが・・・。

やはり家康に擬えたくなりますが、難題に遭遇し、解消努力してこそのステップアップがあるというのが人の生きざまでした。

それにとらわれて悩むなんぞ、なんとも時間の無駄なことか。

 

まぁ霊感商法のカルト教の類はそれを脅しに使うというのが常道ですからね。

トークでもってやたらと不安を煽り、その解法として高額商品の購入を勧めるのですが、それを買ったとしても四苦八苦の解消にはなりませんし、ますますドツボにハマるというところ。

 

いいのかね、この国の在り方。

政治屋どもは票のため自分の利益のためにカルトを持ち上げまた持ち上げられつつ国民を不幸のどん底に陥れているという構図を見せつけられています。

 

また前オリンピック理事の「役」を利して得たカネを「自分の経営する焼肉屋の借金」の補填に使ったという御仁の件を先日記しましたが、その手のわるさがバレちゃったことを御当人は「厄」を落としたいなどと思うかも知れませんね。

それはただ自身の身をも「焼く」、ただの自業自得でからダメ。

勿論、法多山の厄除け祈祷でも解消はムリでしょう。

 

私のそのお寺に行く目的はといえば灯篭寄進者の名前探しでした。

以前もその探索を行っていますが今は古い灯篭が大分撤去されてしまっているようで目立つのは新しいものばかりでした。

時々見うけられるそれを見廻しても劣化して文字の判読は殆ど不可。

事前に奥方に「コレを探してくれ」と指示していたのが「明治・大正・昭和は機械的に無視してOK」。

とにかく「片岡」の名の探索を依頼していましたが・・・

 

この「片岡」は当家三代祐傳の兄、片岡半右衛門なる人です。

掛川藩に寛永十六(1639)に入った(正保元1644まで・・・)本多忠義の家中に片岡家があってそちらに養子入りしたといいます。

この本多忠義の父母が本多忠政に妙高院(松平信康娘 熊姫)というところ、龍野の初代藩主の本多政朝と同じです。要は忠義が三男、政朝が次男ですね。

 

その人の名はかねてより知っていましたが、史料が少なく「詳細不明」の人でもあります。

正保元1644以降、本多忠義の転封とともに家族一緒に居所を変

えていったからということでしょう。

 

その片岡半右衛門の名は拙寺に遺る文書「釋尼妙意記」や過去帳の勒さん(釋尼妙意)の記述にあります。

「釋尼妙意記」は拙寺の「家宝」として伝わるものですが、内容は、といえば後年の記述ということで錯誤もあるようで、判断不能のところ多々あります。サッパリ・・・わからなくなる代物。

 

当家口述伝承では忠勝の姪の勒さんが忠勝つながりで掛川藩片岡家に口利きして(コネ)婿入り、片岡の家を継承したというものですが、その片岡が不明なのです。

掛川のあと越後村上藩、陸奥白河藩と殿さまについて行っているとするとそれらの地の「片岡」について探索しなくてはなりませんね。

 

その法多山尊永寺の寄進灯篭?(碑文かも・・・)に片岡半右衛門の名が刻まれているという情報は今から15年以上前に浜松の林氏にちらっと聞いていたからですが

情報確認の不足を奥方に叱られました。

また林氏とお会いする機会があったら詳しく聞いてみたいと思います。

コロナの終息が見られたら相良に・・・とは仰っていましたが・・・

 

林氏の奥さんは日坂成瀬家の方でそれを機縁に成瀬家関係を調査研究されています。

また「徳川家臣団―子孫たちの証言」に登場されていますね。

ついでに私も・・・という関係です。

 

現地炎天下にあの石段を登る酔狂はそうはありませんでした。

むしろコロナ渦中につきお気楽なものですがね。マスクなどしませんし。

 

今回、ふ~ん、なるほど・・・と勝手に推測したのが⑥の堂内左右に積み上げられた「杉盛-すぎもり」(杉形華束-すぎかたけそく)ならぬ「一斗缶盛」です。

近隣食用油の会社からのご寄進ですが、それを見て「これが歴史だ」と合点したのでした。

灯籠の灯を灯すその燃料、燈明油を使っていた時代からのつきあいの延長であると勝手に・・・団子に油は使わないでしょう。