十五代中7件 男子不在につき 御臨末御書 徳応寺

またも朝、土砂降り、そしてスグの「ドP」、晴れ渡り。

墓参が山の上でしたから、朝はその雨にイラっとさせられましたが、終わってみればいつもと同様のほっこり感。

いつもいつも「今日こそズブ濡れ」と騒いでいながら一度たりともそのようなことになっていません。

ここ数週間の大雨の期間、どうやら無事にすごすことができたようですね。

2度目の梅雨明けが間近、ここでまた「おかげさま宣言」をさせていただきましょう。ありがたい。

 

晴れれば境内はクマゼミの大合唱。

自身の発声がかき消される感覚です。

こちらも負けじと対抗、声を張り上げるものですから終わってみれば喉がかすれ気味。

セミと張り合うことに違和感があるかもしれませんが、当家のセミには圧倒されますよ。特に午前中は・・・それが自然、いつもの夏の到来です。

 

さて以前、小島蕉園による「蕉園渉筆」の拙寺の記述にて9代の

祐厳、10代祐賢、11代祐曜の三代について記しました。

「寺に父祖以来男子無し。養子を以て嗣ぐ焉。

   現住(十代祐賢)一男児を挙ぐ。喜び甚し。」でした。

 

今時それに拘ることはなくなりつつありますが、以前と言えば「男子」の誕生こそが「家」存続の基本でしたので絶対本望となるところ。

真宗寺院も武士社会と同様で血脈=DNAの如しで血脈=法灯の感覚にあった他宗とは明らかに違いました。

 

そういうわけで何故か男子誕生に恵まれない当家が寺を存続させるために取った手段は養子。

おそらくその件、血眼になって探索したのではないでしょうか。

祖父の代までその傾向が続いて祖父の姉たち3人のうちの誰かに婿をとる話が進められていたことはどちらかブログでも記した通りですね。

 

当地では「女子」(娘)に関してよく使われる語に「呉れた」という表現を使いますが要は他家に「くれてやる」ということです。「くれてやる」のですから御当家の所有を離れるということですのでどちらかというと「捨てた」に近い感覚でしょうか。

そして拙寺の女子の場合、明治以降でしたら何とか判明できるところがありますが、それ以前となるといわゆる「ご先祖様一同」になってしまうのです。

要は「女」はどうでもいい時代だったということで・・・。

過去帳には他家に出した娘に関してもそうですが、誕生した娘の名前の記述はありませんからね。

その手の記述があったとしても「○○女(娘)」程度でした。

寛政譜なども女子についてはその感覚です。

 

そういうワケで当家には多くのお寺からの養子があったのですが、案外と出したお寺(実家)にはその手の記述は残ってないようです。

やはり次男三男で家を出た者は「どうでも良かった」のかも知れませんね。

 

さて、ここいらあたりでやはりどうでもいいことではありますが、参考のため初代から私までの間の拙寺住職とその周辺、これまでのわかった範囲のことをざっと並べてみます。

 

初代 慶長九    釋浄了 今井権七 近江武佐 広済寺門徒

                               浄了叔父の祐寿 掛川広楽寺(本多姓)

ニ代 慶安四    釋西念   西林寺(廃寺 菊川堀之内幼稚園)

三代 明暦二    釋祐傳 成瀬藤蔵正義末子 養子

                               母は「勒」釋尼妙意

四代 延宝四    釋敬祐 横須賀長圓寺(佐々木姓)

           敬祐弟の全受は西尾慶昌寺(三浦姓)

五代 享保二十     釋圓受

六代 享保十六   釋祐圓 横須賀蓮舟寺(本願寺派 安藤姓)

七代 文化二      釋祐信 西尾順成寺(安藤姓)

八代 寛政三      釋祐本 伊勢桑名志知村蓮敬寺(木村姓)

九代 天保十三   釋祐厳 刈谷熊村安養寺(三浦姓)

十代 明治十一   釋祐賢 伊勢桑名志知村蓮敬寺(木村姓)

十一代 明治二十五 釋祐曜 俗名は「義誉」(蕉園名づけ)

           妻は「滝江」清水専念寺(曽我姓)

十二代 昭和十     釋祐闡

十三代 昭和五十九  釋祐匡

十四代 平成二十六  釋祐英

十五代 ?

 

ざっと見て3、4、6、7、8、9、10が婿養子。

3代祐傳の入寺は特殊事情ではありましたが・・・。

そして十一代祐曜から男子の誕生に恵まれて養子選びで頭を悩ますことはなくなっているようです。

また十二代以降、妻坊守は近場で見つける傾向。お寺からの嫁を迎えることに拘っていないようです。

十代以前の坊守の名は見当たりませんね。

 

画像は昨日の徳応寺の続き。

親鸞さんのバックに咲くオレンジ色は「ノウゼンカズラ」とのことでした。

親鸞さんの像についてその決まりはありませんので寺によってその存在については任意で適宜。

蓮如さんにするか親鸞さんにするかそれもまちまち、OK。

ただその存在があったとすれば私は習慣的にその前に立ちます。

 

こちらのお寺にあった各文言はそれぞれ感動させられましたが、親鸞さんの足元に記されてあった詞を見てまともや感激しました。

こちらは「御臨末御書」なる親鸞さん九十歳(弘長二歳)に記したいわゆる遺書といわれているものですが、こちらは最近の葬儀式の表白に挿入しています。要は私の趣向。

 

 「我が歳きわまりて 安養浄土に還帰すというとも

  和歌の浦曲の片男浪の 寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ

 一人居て喜ばは二人と思うべし

 二人居て喜ばは三人と思うべし

 その一人は親鸞なり

   我なくも 法は尽きまじ 和歌の浦

       あおくさ人の あらんかぎりは」

 

基本は「(仏として)いつも皆の近くにいるよ・・・」であって、それは当流の本筋のところ。

そういうこともあって当流では例の「冥福をお祈りします」の冥福なる「勝手な決めつけ」を口にしないのでした。

真宗の坊さんは絶対にと言ってもいいほどその語は使用しませんし忌嫌うことばでもあります。

 

「冥途なんかにいないよ~」なのです。

一休さんは揶揄して使用していましたが(冥途の旅の 一里塚)・・・

政治家殿の類はその言葉を使いたがる傾向がありますが、オカシイとは思わないのでしょうかね。

まぁ知らないというか、他人様の真似事なのでしょう。

 

以前にも記しましたが冥途といえば冥王星へたどる途・・・我らの娑婆世界からは遥かに遠い暗黒世界です。

そちらの「幸福」とはいった何?と単純に想像してしまいます。

 

その本心は「死したからには私に祟ったりせず遠くにいて大人しく(永眠・・・ 安らかに)していて欲しい」という意が含まれている語なのです。

これは亡き人に対してあまりにも失礼すぎかと。

それが如何にも丁寧そうなその言葉に変わっていったのでしょうね。

 

③は本堂の額「佛様とは」。

 

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コメント: 2
  • #1

    お祭り大好き (土曜日, 23 7月 2022 01:29)

    一般市民と異なり、ご住職が15代、徳川家は恒孝さんが18代、武田家は邦信さんが16代といずれも家系の重みとお婿さんの歴史上の重要性を再確認しました。 我が家の家系を紐解こうとしましたが、古文書は一切なくて幕末以前の手掛かりを見つけることが出来ません出した。

  • #2

    今井一光 (土曜日, 23 7月 2022 21:55)

    ありがとうございます。
    お寺によっては戦災、火災等で失ってしまった例も珍しくありませんが、過去帳の存在は大きいですね。

    最近では「入婿」による血脈継承が他流でも導入されるようになったようです。
    しかしながら案外と前住(義父)の権威が圧倒して円滑な家族関係に発展しない傾向があるとききます。
    これは師匠と弟子の関係が極めて強い宗旨的なものなのでしょうか・・・