「蕉園渉筆」内の当山大澤寺の記述

古文書好きの叔父は東京在住。古本屋巡りで時間を費やしても標記の「蕉園渉筆」に辿り着かないことに業を煮やし、静岡在住の叔母夫婦を使って静岡大学図書館に掛け合わせ、吉祥寺の図書館にその書写版「新釈蕉園渉筆」を送ってもらったそうです。

しかし、貸し出しは勿論不可能ですので、「担当者立会いの下の閲覧だった」ということ。

 

私も「それほどまで・・・」するならばと、当地元の資料館(教育委員会)をあたったり史跡研究会のコネでその所有者に会ってから、そのものズバリを拝見させていただきました。

勿論全ページをコピーさせていただきました。

 

これは昭和20年代に地元歴史家「山本楽山(吾朗)」がこの読み下し文「新釈蕉園渉筆」(後半部分は漢文のまま)を限定100部製作して周辺に配ったそうですが、現存するものは静岡大学等、私が知っている限り2部程度でした。本編の「蕉園渉筆」となれば現存はほとんどこの1冊かも知れません。

貴重な品物を拝見させていただき感謝し、早速叔父の方にもデータを送付させていただきました。

 

私が住職を務めるようになって8年、その「蕉園渉筆」の存在は知っていても中身についてはその詳細まで突っ込んで紐解くという機会が無かったのは

①現物も書写も身近な場所に無かった②私自身その時代的興味が無かった③先代(父)や史跡研究会の方のほか相良町内からもその手の情報が無かった・・・等ですがやはりそれらに至る主だった理由が全篇漢文で江戸期ならではの言い回しに難解な漢字だらけということに尽きますね。

よって未だこの相良にはまっとうな読み下し文は出廻っていなかったのです。

 

しかし小島蕉園という人物は偉人としては特別クラスの人道派(徳政)で戦前の教科書などには頻出の人でした。

そしてまた相良代官としての任官は彼の死によって僅かな期間(3年)で終焉を迎えることになりますが、内容は地元相良と周辺地域の事物限定で、相良の歴史的検証価値として優良史料でもあります。

 

さて、この機会にサイト左側のナビゲーションにある「田沼後の相良」に「小島蕉園」と入れてこちらにも関連ブログをリンクさせることにしました。

また、少しづつですが、叔父さんによる読み下し文をアップしていきたいと思います。おそらく「蕉園渉筆」の全読み下しは世間には存在していないはずですので、資料公開は初めてとなるでしょう。

 

ナビゲーションの通り、小島蕉園は大澤寺九代祐厳十代祐賢(・・・私が十五代目)の頃相良にやって来た代官で、寺伝では蕉園は祐厳・祐賢と頻繁に交流があったと。

しかしこれまでその根拠が見当たらなかったわけですね。

私が小島蕉園と出会ったのは童門冬二の著作、『江戸の怪人たち』(集英社)の一章 『義人傑人自由人』の中の「小島蕉園(医者)」を朗読したものを聞いたのが最初でした。

 

その内容をたしか報恩講か盂蘭盆の際に参拝された皆さまの前、その作品を本堂内に流した記憶があります。今はそのソフトが何処に行ってしまったかは記憶にありません。きっと昔のPCとともに消え失せたのでしょう。

そのストーリーの中に、「懇意にしていた寺の坊さんと本堂に上る階段に座って境内に咲く桜を見るシーン」がありましたが、それを当山境内にオーバーラップさせて想像を巡らしたものでした。確か亡くなったらその桜の下に遺骨を埋めて欲しいというような会話があったかと。

一昔前(父の談)、鐘楼に上る石段の本堂側に桜の木が1本あったと聞いています。

 

そこで、蕉園渉筆の中で大澤寺の記述は・・・と探せば・・・

やはり、ありました。寺伝の通りです。

それでは「蕉園渉筆」大澤寺の記述を。

 

大澤寺

波津大澤寺火宅僧也、現住好吟詩、屡相往来、

寺父祖以来無男子、以義子嗣焉、現住挙一男児

喜甚、令余名之、作其説後寄文稿於東都諸友乞正

中有此説、白藤批曰、惜哉名冒、儲宮之諱、

余大愧

告現住請更名、曰所賜高作既已裱飾、不欲改作、

彼方外之士、余亦不強言、現住名祐賢、字曰義誉

 

火宅僧―妻有る僧 ・・・真宗僧侶

東都―江戸

白藤―蕉園の江戸の友人 蕉園渉筆によく出てきます

儲宮―皇太子

高作―すぐれた作品

裱飾―表装

 

波津大澤寺は火宅(奥さんがいる)僧也。現住(今の住職)詩を吟ずるを好む。 屡々(しばしば)相(私も住職も)往来す。

寺に父祖以来男子無し。養子を以て(娘に養子を迎えて)嗣ぐ焉。 現住(十代祐賢)一男児を挙ぐ。喜び甚し。

余(私)をして之を名ずけしむ。 其説を作りて後、東都諸友に文稿を寄せ正しきを乞う(こんな名を銘々したがいかがだろうと友人たちに聞いてみた)。

中に此説有り。白藤批して曰く、惜哉(惜しいな!)。

名は儲宮(ちょきゅう―皇太子)之諱を冒す(皇太子の名と同じだよ)。

余大愧づ(大いにはずかしい)。

現住に告げて名を更めんことを請う。

曰く高作を賜わる所、既に裱飾已む。改作を欲せず。

彼方外之士、余も亦強いて言わず。

現住名は祐賢(10代目)、字は義誉(11代目)と言う。

 

 

それでは年代関係のおさらいです。

 

        蕉園    9代祐厳 10代祐賢 11代祐曜

文政六1823 相良着任53歳  60歳   27歳

      大澤寺墓碑記銘

文政七1824 蕉園渉筆54歳  61歳   28歳   1歳

                十一代目の名づけ

文政九1826 相良で没56歳  63歳   30歳   3歳

 

蕉園に名づけられた11代目祐曜は明治25年69歳で亡くなりました。

 

この記述により短い間でしたが、蕉園と大澤寺九代十代との交流があったことが確認できました。

それもかなり親しい間柄であったことがわかります。これまで当山の墓石に蕉園の名が刻まれていたことからそのあたりは推測できましたが、十一代目の名を蕉園が命名したということはまさに初耳でしたね。

面白いのは当流代々の「血」なのか、当時の皇太子の名と重なってしまったので(憚って)違う名に変更しようという蕉園の提案に、「イイ名だし、折角だし、もう表装しちゃったし・・・」的、なあなあ感覚「わかりゃしねえだろ」風雰囲気もあってニヤッとしてしまいました。

 

また、「火宅僧」とは今は完全にこれこそ「死語」。

当流「火宅」の出典は無論、歎異抄です。

 

「煩悩具足の凡夫 火宅無常の世界は よろずのこと

皆もってそらごと たわごと 真実(まこと)あることなきに ただ念仏のみぞ まことにておわします」

 

ということで世に言う「妻帯の坊主」として「本邦初」と人口に膾炙していたであろう親鸞聖人の流れを組む寺という意味でしょうね。

現在では宗派問わずまず「火宅僧」になっていますので「真宗の坊さん」という意味では使えなくなってしまいました。

よってもはや完全に意味のない使えなくなった言葉でした。

 

ちなみにお隣の明照寺さんの記述もありましたので記させていただきます。短いですが。

 

川崎明照寺

鐘昔網之海、初無銘 近時俗僧新銘之、大失古色、文亦拙劣可厭

 

海から鐘があがったという伝承があったのですね。

最初は鐘に銘は無くてきっといい音がしていたのでしょう。

ところが

「最近になって僧と檀家が新しく銘を彫ったそうな」。

すると味わいのある鐘の音はまったく消え失せてしまいました。そしてその銘文ときたら・・・・とのこと。

可厭(いとうべし 「イヤ」・・・)・・・まったく凄い表現でこちらも少々引き気味。

 

最後の画像が鰆の記述全文。