本多 安藤 石川が三河系大谷派寺院三大苗字

昨日も降りそうで降らず、晴れそうで晴れない・・・どちらにも煮え切らない一日。

84歳の独り住まいの女性がシニアカーでお参りに。

足腰の具合が悪いので本堂に上がることができないと悔やんでいました。

スロープの使用を勧めましたが、庫裏の玄関にある九字と十字の名号、そして親鸞さんの像にお参りして「おゆるしいただく」とのことでした。

 

その方は以前自転車で転んで腰を強打してから神経の具合が悪くなり「このところいよいよ足の動きが覚束なくなった」と。

食事やら熱中症やらたくさんの心配事がありましょう、「困ったことがあったら気軽に電話してね・・・」と言って別れました。

お話を伺っている際、実は先般「こんなことがあった」・・・

それが、如何にも「まともでしっかり」した若い男がやってきて・・・(しっかりした・・・とはビシッとスーツとネクタイ、革靴に皮の鞄というスタイル・・・そう)

「では私とは大違いね?」と笑いながら、その人が「お宅で昼食をとりたい」(昼食用の弁当を持っていたのか、昼食を出してほしいということかはわからないとのこと)と言い出したそう。

 

さすがに「こりゃヤバい」と思って玄関をピシャリと閉めて、完全無視、その件以来玄関は閉めっぱなしにしているとのこと。

国道沿いでありながら人の往来は滅法少ない場所です。

 

何しろこの社会は年配者を喰いものにしようとする悪辣の横行がやたらと目立つようになりました。

世の中、キレイごとの多数を見聞きしますが「真は嘘ばかり」と言っては短絡的でしょうかね。

ワルい奴、いっぱいで溜息がでます。

大抵がビシッと見栄えだけはイイ。カタチで判断(昨日の和歌)見誤ります。

 

本日も勝鬘寺。

御内陣にはご本尊に御開祖、そして蓮如さんに聖徳太子の各像が鎮座しています。

拙寺はご本尊以外はすべてお軸ですからね。

あの黒光りする像の整列はさすがです。

ただし、当流は像でなくて、軸(絵像)でいいよ~、そしてまた絵像でなくて名号でいいよ~という蓮如さんの言葉がありますようにその件「どうでもいいこと」でむしろ字の並び(名号)が一番イイのだよ・・・とありました。

 

さて、一昨晩の三河一向一揆のNHK番組の内容は以前記したブログ、上宮寺釋尼妙春のところで記したところではありますが番組で紹介された本證寺門徒連判状について。

 

天文十八1549年に本證寺に帰依する武士115名がご本山の護持と本證寺に何事があっても護るといった誓約書を記したもの(最後の画像 ネットから)。

筆頭署名は「石川忠成」(清兼)で、石川一統だけで33名。

そして番組でも触れていましたが松平・今川・吉良・水野氏と各勢力に仕える者たちの名が連なっています。

各「殿」として仰ぐ領主配下のサムライたちがその境を超えて阿弥陀如来という異種なる「主」のもとに集結して意思統合している図です。

 

先日来、蓮泉寺の石川政康、石川台嶺など石川姓について記していますが(下記「サイトマップ」から検索ください)、拙寺の事情を勝手につらつらと記せば七代目の実家、順成寺の安藤でその安藤の元は勝鬘寺、13代目の妻(私の祖母)が法行寺の石川などなど「安藤」と「石川」を名のる寺の家系は三河中心にまたぞろです。

それだけ一統の派生があったということですが、ここでまた「どうでもいいこと」を記せば三河真宗系の寺院は概ね「三河武士団の血脈である」と言えるのではないでしょうか。

まぁ拙寺の開基今井権七は近江から流れてきた新参者でしたがたまたま3代目に成瀬藤蔵の息子が入って幕府から目を掛けられるようになっただけです。

 

室町将軍家の習いでもありましたが武門の家に誕生した男子は「僧籍へ入る」というのが常でしたね。

将軍家ではありませんが、三河武士団はまずは真宗に帰依していたため、真宗寺院有力有徳人たる武門の家ともなるとその次男三男には寺を建てさせました。

その寺を代々継承させ本家その他一族郎党家臣団の菩提を弔うという役に付かせたのでした。

たとえ戦働きで死したとしても「後生の面倒は必ず見る」といった安心システムであったかも知れません。

そういう意味で派生した各名家たる家系の名を継承した寺が多く、結果今もその苗字が続いているのです。

 

以前も本多忠真(またはこちら こちら)ついて記しましたが三河武士団から派生した真宗寺院というものは他流の感覚では理解しえない特殊性があります。

ブログでも何度か記していますが真宗寺院継承の血脈は開祖以来「法」と「DNA」です。また弟子は持ちません。

妻と子を持つべし・・・です。

他流では「法」のみでその弟子たる者のどなたが継承しても「それでヨシ」ですから「一代限り」というのがそのパターンですね。現代は大分変ってきていますが・・・

 

真宗寺院でも中にはその血が途絶え別の姓を名のる場合もありますが基本は拙寺の如く何とか繋いでいこうとするのが筋になります。

その際、近場ということもありますが婿も嫁も三河武士団の系統の寺からということになります(幾度も記しますが現代においてその感覚はありません)。

尚、当家初代今井権七の叔父祐寿の建てた広楽寺は今は「本多」姓です。

 

今その手のことをこういった形で記す意味はありませんが・・・まぁ私の歴史的考察ということで・・・。

 

ここで三河から駿遠にかけての真宗大谷派限定ですが、主たる姓をざっと羅列すると・・・(本願寺派 高田派についてはわかりえませんので・・・)

石川姓16か寺 安藤姓18か寺 本多姓18か寺(その他本田姓4か寺)になります。

その3姓が圧倒(他の姓になると「天野」「大河内」が各5か寺)していますが、他のお寺の様々な苗字を眺めているとどちらも歴史を感じるものばかり。

中には松平、織田、北条なども。

それらがこの450年の間に様々に交流して真宗の教えを繋いでいき今があるということです。