観音寺城に見る石垣石積みのオンパレード

昨日もウグイスの歓迎を受けました。

鬼女新田、行僧原の茶畑の奥に河原崎家一統の墓域がありますが、そちらにて墓参り。

風が吹き渡る台地上は日差しが強くても心地よく梅雨入り前の至福の時間をいただきました。

 

当家は分家を重ね、池新田地区に下りたグループも多くあります。

明治期の役場の記載ミスから河原崎→川原崎との変更やら「カワラサキ」「カワハラサキ」「カワハラザキ」など読み方も多様です。

 

ちなみに菅山の澤田一統でも「澤田」と「沢田」の字面が二通りあって、これも役所の当初の記載からのダブルスタンダード。

当時の事だから「仕方ない」。また戸籍上のこと、「今更訂正」というのも面倒というのが皆さんの共通の考えですね。

 

その澤田家もそうですが河原崎家のご先祖も拙寺初代今井権七(郎)とともに大坂石山本願寺に籠城し、和歌山へ退避後、天正十年六月の僥倖を機縁として遠州に下ったグループで、どちらも観音寺城周辺に居た地侍というのが私の推測するところ。

勿論、増田や野村そして布施も拙ブログで近江出身を強調していますが。

領主は佐々木六角、宗旨は本願寺門徒のパターンです。

 

今井権七は安土の広済寺の門徒だったことはわかっていますが

近くには足利将軍家とも親しかった唯念寺もありました。

そもそもデビューが比較的「近頃」の新興勢力、信長への反抗心は強いものがあったことでしょう。

 

さて、私は次回の土日で相良城本丸跡の相良小学校の裏に放置してあった「石垣の石」と思われる石たちの搬出を終わる予定です。その一つ一つの重量を腕と足の関節に受けて(腰を使うことは意識しません)思うことは、当時の人(まともな栄養ある食べ物もロクに食すことができないはず)たちの「力持ち」に「頭脳」と「統率力」そして確固たる「計画」の凄さですね。

 

私は石を軽トラの荷台に載せて、地面に下ろすだけの仕事。

積み上げについてはまったくデタラメ。

中でも重たい石は地面に並べるだけですから。

 

その「お遊び」(奥方)の最中、思うことはそれ(昔の人のスゴさ)で頭の中に蘇る画といえば観音寺城の石垣たち。

まさにオンパレードの如くその残存遺物は「石垣とはこうあるべきである」とあたかもその展示会のようにも感じます。

それらは山頂本丸付近に集中していますが、ひとえに思うことは「そもそもどうやって運び込んだのだ・・・」ですね。

他の城郭でも言えることですが、観音寺城はデカくて高い。

高低差と距離ですね。

 

また、直近安土城築城のためにこの城の石垣は崩され持ち出されたことが推測できますが、その石たちのすべてとはいえませんが、それでも観音寺城にこれだけ残っているのですからね。

 

画像は2015年頃のものですが、やはりあの城も冬限定です。

どれもこれも圧倒されますが、上記画像でいえば、⑪など私好みの画像です。

石積みを推測できるだけで殆ど崩れて原型をとどめていませんが中央の窪みからして門や虎口を推測したところ。

観音寺本丸付近には家臣団の屋敷が点在しています。

 

観音寺城下での楽市は有名ですが、そこに行って「何か買ってこい」と言いつけられるのは大変、主従関係はラクじゃない。

「パワハラ」など思想はありませんからね。

山を上がったり下りたり、何から何まで大変なことです。

観音寺城はスケールが違うのです。