岡崎本宿法蔵寺 三河国二葉松と参河志 

30日に三回目のワクチン接種を済ませ、「さあ久々に遠州の地へ」と念入りにも自治体の無料PCR検査を受けての結果待ちの間、私の「どうよ・・・」の投げかけに横浜の「奥の墓道」氏から「悪寒がして熱がある」などと返信がありました。

 

検査では結果は「陰性」(夜中の24時近くにメールにて連絡)とのこと、セーフだったのでしたが、当人が言うにはここのところの寒さのせいの風邪気味を。

摂取してスグは「平チャラでこれまでで一番軽い」とは言っていたものの体調はどんどん悪く変じて仕舞には「やはり副反応」を示唆していました。

 

体調が悪いということは本来の免疫力が劣化していることですし、3回目のワクチンが効き出すのは2週間後。

私も「ムリすることはないのでは・・・」とメールしてしばらく、帰省断念の連絡を実家にしたと連絡がありました。

法事には出席できないということですね。

それらはGW直前まで「3回目」の接種ができなかった行政の責・・・?「経済活動」とやらを断念したということです。

 

世の中うかれまくっているGWの様。

お調子にのっている世間様の姿を見て呆れているのは、私たちが憶病なのでしょうかね。

普段は無茶ばかりやってる私どもであっても、ひと先ず立ち止まって理性を取り戻せば「ここは静観」のしどころというのが今でしょう。 

強行すべきではありませんね。よって中止は良策と讃えました。彼の全移動は公共交通機関(地下鉄―JR東海道―バス)ですからね。

 

今、私が頭が痛いのは盂蘭盆会法要前の世話人会の開催をどうするか。

世話人様と婦人部のみなさんを集めたら本堂に50人くらいが集まりますからね。

先般その件「どうするの?」と投げかけられましたが私は「しばらく様子見」とだけ応えておきました。

そしてこれまで盂蘭盆ともなると何かとイベントなど入れていましたが今のところはそれも白紙です。

 

さて、昨日記した法蔵寺についてそれを語っていけぱその切り口は無数にあってこの本宿の地関連、派生含めてエンドレス状態に陥りそう。

それくらいにその地の歴史の深さを思いますね。

 

それはそもそもが家康が幼少期に居た法蔵寺があってその寺を主に幕府天領として本陣が置かれたということです。

幕府としてその寺とその地を最高権威の元、特に重きに置く姿勢を強調しました。

寺やその周辺の事物もそうですが、昨日記した如く寺の墓域も実に興味深いものがありますしそのお寺の名事体が阿弥陀さんの名(菩薩の時)ですからね。思いは一層というものです。

以前拙ブログでは近江河瀬の法蔵寺について5回ほど記していました。

また「法蔵」といえば思いつくのは東本願寺前の仏教書専門の書店の名がありますね。

 

同じ東海道、国道1号線沿いの音羽蒲郡インターを降りてスグ、以前の宝飯郡(豊川市)長沢周辺(長沢松平家の地)と同等、それ以上に幕府のウェイトが高かった場所(法蔵寺は額田郡-岡崎)になりますね。

 

最近のブログのそのウェイトは三河に片足、いや両足とも突っ込んでいる感あります。

まぁそれは私の勝手な思いではありますが、拙寺15代450年の間その地との関りが深くあったからということです。

近江から下った初代今井権七以後、遠州にあって三河衆との関りを強く持ちました(本寺は三河本證寺)。

 

歴史上、三河武士団と真宗寺院との関わりも並々ならぬものがありましたし、当然に家康との関わりも深く、大きく俯瞰していくと他所にはない特筆、寺というものの独特の形成があったからでしょうか。

 

やはりこれからその三河について興味を持たれる方がいらっしゃるとなれば、その根拠とすべき私が思う書を(余計なお世話ですが)あげたいと思います。

 

それが「二葉松」ですね。

城郭の教科書「日本城郭大系9」の愛知、三河の城の解説に「二葉松によれば・・・」などなどの記述がよく見えます。

正式には「三河国二葉松」(みかわのくにふたばのまつ) 

元文五1740年の三河地誌のことで要は当方奥方が言う「勝手にしろ」―「ハカ・テラ・シロ」について簡略ながらビッシリと記されたもの。

 

「テラ」に関しては無数にある真宗寺院は割愛する傾向があってその辺りは少々不満にはあるもののその世界(三河史)のバイブルと言ってもいいのではないでしょうか。

ただしハカ・シロなども完璧を求めることはできません。誤りも散見されるよう。

よって「参河志」上下巻(渡辺政香 1836年)なども机上に置いて補完できればと思います。

 

まぁそれも比較参考としてであり、そもそも「歴史」についてはそれぞれの受け取り方、評価がありますし「本当のところはよくわからない」ということは頭に入れておかなくてはなりません。渡辺政香は神主ですからやはりテラのウェイトは低いかと。

「参河志」下巻にはその「二葉松」が掲載されています。

 

③画像は二葉松の「寺」のうちの1ページ。

右側中に三河一向一揆でお馴染み「三河三ケ寺」の一つ針(春)崎町の勝鬘寺が見えますが左ページに二村山法蔵寺、寺領八十三石とあります。

ちなみに右ページの七十九石の大寺、片寄村の廣澤山天恩寺(臨済宗)は家康には縁起のイイ寺。

長篠設楽原戦の出立前に一泊したといいます。

戦勝祈願と戦勝御礼はセット。

 

ちなみに真宗寺院になると一揆筆頭格「三ケ寺」は当初はキツイ咎を受けました。

 

④は「参河志」上下巻。