スプリングボード 不安の解消は「出遇い」から

「春の法要」開催に備え雨上がりの境内でテントのフレーム立てと棚店の準備を。

世話人様有志にお集まりいただきました。

本年も縮小となった寺楽市ではありますが、何件かの出店はあります。

 

私は昨日記した通り本堂入口の踏み台の製作。

その件、着手のきっかけ(背中を押される スプリングボード)は先般の法要で高齢の施主がその「20㎝の段差」の通過に難儀していたところをまじまじと見てから。

数人の介護の手が必要なくらいでした。

 

私も今のうちは飛んで跳ねて時に躓き転んでまた落ちるなどの痛い目にあいつつもそれを日常のことと平チャラの躰で日々過ごしていますが、その方の年齢まで、もしやおかげさま、生かされるとすれば私もそのように20㎝の段差に大いなる躊躇をする身なのでしょう。

人というものは自身がその僅かな段差で落ちやしないか転びやしないかという不安の境遇になって初めて真の人の気持ちがわかるもの。

 

あらためて考えてみるに寺という施設は段差だらけでいわゆる「バリア」結界の世界。

私もある程度はその対策として正面の階段に手すりを付けたりサイドにスロープを設けたりしていましたが今回の「20㎝」については「それくらい何とかなるだろう」程度の楽観があって、まったく心配するに及ばない些末なことでした。

 

しかしその意味は仏道場への入場の躊躇でもありますので大切な仏縁を遮断しかねないということに繋がってしまいます。

「木造名古屋城改築の際、エレベーターを併設して欲しい」などいう私でも仰天させられるような要望を聞いたことがあります

が、今回の「20㎝」についての対策は奥方の提案通り、大層なことではなくまた安直割安な対応で可能なこと。

 

当初は跳び箱の前に設置されるスロープの効いたスプリングボード状のものとも考えましたが簡単に高さを変えた2分割の段台の製作となりました。

スロープは作りも面倒であるのと、ある程度の距離が無いと角度が急になって却ってリスキーです。

あの位置だとそのまま滑り台の如く階段下まで堕ちそうでもあります。

結果として前日に装着済の手摺がバッチリ生きて絶妙のセットとなりました。

何故にもっと早く気付かなかったのか・・・後悔と反省も少々。

 

さて、「スプリングボード」をあらためて検索すると

① 体操の跳馬などの踏み切り板

② 水泳の飛び込み競技の飛び板

③ ある行動を起こすきっかけとなるもの

です。

今回の工作は①でありながら③。そして「春」でもありますからね。本堂に入ろうという気持ちを少しでも押してあげられれば・・・と思いました。

 

私の法要後のご挨拶のテーマは決まっています。

ご時節がら節皆さま方の「ぼんやりとした不安」について「ハッキリした心持」を「本願力に遇いぬれば」の御和讃を引っ張り出してお話させていただこうと思っています。

 

ちなみに「ぼんやりとした不安」「スプリングボード」の語句は芥川龍之介の「或旧友へ送る手記」に。

 

私の勝手な意見。手前味噌失礼。

世界的文学は勿論、日本の歴史世界に深い見識のあるあの人がもし真宗の教えにもっと深く「出遇っていれば・・・」もっと違う「プリングボード」を得られたのかも・・・など思うのでした。

 

「浄土真宗はただの宗教にあらず、哲学である」とどなたかが仰っていたことをも思い出されます。

所詮私の浅薄なお頭で及びもしないところでしょうが彼の最期に対しては「迎合」などまったくもってできはしません。

 

話が飛びますが再び私の持論を。

「浄土真宗を深く見ずして日本史(特に戦国史)の理解は難しい・・・」です。

対真宗門徒に浪費した越前朝倉家の長年はその存亡に関わる事案にも繋がったと思われますし信長もあまりにも無駄な時間を過ごしてしまいました。

何故か・・・無理解からの誤算ですね。

「空しい人生」と結論付けてしまうのも何ですが対応を誤る例はたくさんあります。

三河では家康も大いに手を焼きましたが取り扱いを誤ったらさらなる大ヤケドを負ったやも知れません。

その件は上手い差配でした。

 

顕如さんが諸大名と各国門徒衆に緊密に通じていたこと、あの時代ならではの真宗の躍動がありました。

何度も記していますが本能寺の件、光秀の「スプリングボード」(大いに背中を押した何か)についてその「動機の全部」(その語はやはり上記芥川)として「これだ」とは言いきることはできませんが本願寺救済の意向があったことは間違いないと考えています。

 

信長そのもののその対立と戦争突入の誤算というものが一番に指摘されるところですが・・・。

やはり「3日もあれば・・・」程度の楽観があった(「長袖」嘲笑)のでしょうが「長袖」を相手に大坂奪取を11年と無意味な日々を浪費してしまいました。

そして時間の無駄は自身の命の無駄遣い。

またそしていつまでも「私が」生きていると思っていることが間違いの元。