大澤は光のシャワー 天和元稔釋一如の軸但し書き 

色々と「ハカ・テラ・シロ」廻りをせていただいていますが、まずお寺の名を拝見した時「いかにも真宗系」などと思いつつ、「さてどちらの宗派宗旨・・・」などとその門を潜ってこの目でその実際を確かめるというのも楽しみの一つであります。

大当たりの時はドヤ顔になるというものです。

 

拙寺の名称の変遷として「本楽寺」→「本楽院大澤寺」→「釘浦山大澤寺」と以前のブログでも記していますが、「本楽寺」の方が余程カッコいい風の事も記していました。

当初の菊川段平尾の本楽寺が高天神の戦の際、家康方の陣となって焼失し相良の大沢の地に坊舎を建てて心機一転寺の名を大澤寺と変えてしばらく家康の差配によって相良新町に移りそして現在の波津の地に「今ある」ということですが、私の若き頃の思考としてはその寺の名に「相良の田舎の字名」であることを卑下していましたが、それはいかにも短絡的素人考えでした。

 

勿論その地名の件もありますが、「大澤」には真宗的にいって深い意味がありますね。拙寺各代住職はそれを承知の上での寺の名乗りの継承でした。

そもそもその「大」という文字は経典頻出の文字でまず大抵は仏が私どもにもたらす各恩恵の「デカさ」を表現しています。

そして「澤」の文字で第一に思い浮かんでくるのが、正信偈に続く超オーソドックスな和讃(浄土和讃)「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり~」から続く

 

光雲無碍如虚空

一切の有碍にさわりなし 

光澤かふらぬものぞなき 

難思議を帰命せよ

 

の「光澤」です。

要は「光のシャワー」。阿弥陀の「光」といえば知恵と気づきの光ですから、それが如何に「わたしが」気づけないおバカであるかということ。

それに気づいて、ありがたい将に真宗的であると胸を張れるようになっています。

 

以前私の名前を付けた祖父が経典から持ってきてその元ネタが「一一光明」と勝手に推測していたのですが、何のことは無いこの和讃四句を並べてみると「一光」と読めます。

祖父の子供への命名はたくさんありますが、他人に任せたり適当に付けていることも見受けられます。しかし私に限っては経典から引っ張ってきていることは疑いのないところです

 

祖父と言えば夕方のお勤めの正信偈に付き合わされた時の苦痛を思い出します。中三の頃だったと思いますが祖父の早読みに付いていけませんでしたね。

その点私の場合は息子を小4生に通夜葬儀デビューさせていますが、「嫌などと言えないうちに・・・」ですからうまくやったと思っています。

父などは息子(私)を人前に出すことを恥と思っていた嫌いがありましたから私の葬儀デビューは40歳過ぎてからでした。

私は「恥」を恥と思わぬ図々しさがあったということですね。

 

吉祥寺の叔父の名は「隆明」で普通といっちゃあフツーの名で手抜き?をも思いますね。

まぁ子供が多いので気分次第だったのでしょう。私は初の孫ということで気合が入ったのかも知れません。

 

その叔父が私の古文書の先生であってその指導を度々受けているのですが、このほど私が「こうする」といいながら実は既に実行していることの評価を伺ってみました。

すると「・・・・」と若干呆れた感があったものの最後は「まぁ悪くないが説明は必要だ」とのことでした。

 

それが法名板の法名の脇に記す「没年」の表示です。

今年でいえば「令和四年」の「年」を「稔」に変えるというもの。そして「干支も記す」です。

干支に関しては占い系のものは私は嫌悪していますが、歴史に接していれば日本では年号と干支は切っても切れないところありますからね。

口では「西暦にしちまえ・・・」などと暴言を吐きますが歴史というものに深く接すれば当然のことかも知れません。

ということで本日のそれを記せば・・・

「令和四稔壬寅三月二十三日」。「弥生」はさすがにやめておきます。

叔父は干支に関しては何も言っていませんでしたが「年→稔」とするならば絶対に一言付け加えるべき。「混乱させかねない」と。99.9%の人が「ねん」=「年」と思うから・・・でした。

了解しました。

 

一言で独りよがりではありますが、「稔」にはより深い齢の重ね方を表すように思いますから「悪くない」と思います。

 

さて、昨日の「凡愚遇無空過者」の「親鸞聖人御影」の掛け軸について再び。

そちらは以前本堂後堂の御櫃の中から見つけたものです。

 

「大谷本願寺釋一如 書之

        天和元稔辛酉孟冬下澣」

 

とありますので東本願寺十六代法主の一如(1649~1700)がそれを天和元(1681)に記して拙寺に下したことがわかります。

この和暦「天和元」こそがその「稔」使用の実例です。

お調子者と言われるかもしれませんが今回の「稔」はこの天和の一如さんの軸の件を根拠としています。

1681といえば江戸期の幕末近い頃のものが多い遺物の中で結構に古めです。

 

孟冬下澣(もうとうげかん)の孟冬とは冬の初めのことで初冬・・・10月か。下澣は下旬。

さすがにその語は難解です。 

 

「本證寺下遠江国榛原郡相良新町大澤寺物也

                 願主釋圓受」

 

先日三河別院のところで記しましたが、当時の拙寺が属していた本山直轄の寺の名「本證寺」の名が。 

また「新町」とありますのでまだ波津の地ではないことがわかります。

 

願主釋圓受は拙寺五代目⑤。

成瀬藤蔵正義の末子傳助-拙寺三代釋祐傳の孫になります。

 

ここで釋圓受の「圓」の崩し字。

がつお氏のくずし字サイトから⑥⑦。ぱっと見難読。

 

以下は「光のシャワー」の和讃。昨日の「大寶海」の「大」とくっつけて「大澤」その能書きで行きます。