四十九院唯念寺 庫裏も貴重な建造物

 

寒さのうえ強風。

本堂後堂に突っ込んでいた古い打敷を引っ張り出してテラスの2階にざっと広げるなどしてみました。

本当は外気に思いっきり触れさせたかったのですが・・・

但し古いといっても江戸中期の物は少なく、後期の物ばかり。

繊維質は虫とカビと退色という劣化要因に容易く降参してしまいますから。

余程真面目に「管理して遺したい」という気概がなくては無理な話です。

 

拙寺は近江を出自とする真宗寺院ですが、初代の権七(郎)は石山本願寺から、紀伊鷺森に顕如さんが向かうに従って籠城地に同行しました。

信長と長期にわたって交戦し続け、絶体絶命の状況に陥ったそのとき、あの天正十年六月の奇跡的朗報を迎えての歓喜踊躍、晴れて遠州に戻ることができたということからが始まりですが、そもそもそれ以前に故郷の近江は捨てていました。

 

理由は故郷安土(武佐)に於いての住みにくさ、生きづらさ感じたのは真宗門徒が各地で信長と戦っていたことは言うまでもないこと、その信長の居城が眼前にそびえ立ったのですから当然といえば当然です。

やはり当時の情報として遠州の気候が温暖で暮らしやすいということも十分加味されたことでしょう。

 

そしてまた真宗教団の危機的状況の中、顕如、教如と直接その元に長期間過ごして、平穏無事に家族の待つ遠江(当時は菊川段平尾)に帰還するとなって、その中で培った親鸞の教えを是非に広げたいという希望が芽生えたことでしょう。

また近江の真宗の教えは既に飽和状態と感じたかも知れません。

それに対して西三河以東、遠江などは新しくその教えを受け入れる余地がありました。

 

近江と遠江・・・「うみの国」という同じようなお国柄をイメージしたのでしょうが、そこにもその夢を実現するために、ある意味いい機会であると判断に至った理由があったかと考えます。

叔父のいた三河の天台宗本楽寺の改宗をすすめ叔父と一緒に段平尾にその名と同じ本楽寺という道場を開設したのが拙寺のはじまりです。

 

人それぞれ「生き方」があります。

故郷を諦めて(捨てて)新天地にて希望を探すか、先祖伝来の土地を守って(一所懸命)そこで生き抜くか・・・「一所懸命」の語源の通り、それこその優位性が説かれた時代ではありましたが当家の権七さん(釋浄了)はそれを捨て去ったのでした。

数多の戦の中、それを生き残ったこと自体奇特なことでした。

 

昨日記した四十九院唯念寺にも石山本願寺の危機的状況の中、顕如の檄に応じて門徒宗を集めたという歴史が残ります。

 

その前に、昨日は唯念寺の歴史の深さに一向専念にそぐわない各遺物の存在(法然像に弥勒菩薩を表す山号等)を記しましたが、その寺の創立について前四十四世住職の記した書物がありますので冒頭転記します

 

「抑々当院は行基菩薩(668-749)が聖武天皇の命を奉じて七堂伽藍の坊舎を創建した。時まさに天平三年(731)。自作の弥勒菩薩を本尊とした。同天皇は構営が兜率の宝殿に拠っているため、山号を兜率山、寺号を四十九院と名づけしめ、そして勅願所と定められた。

古きより当院に聖武天皇の寿牌を奉安しているのはこの所以である。

行基は更に勅を受けて、弟子の法海とともに荒神山の上に本院の奥之院を建立し、大日如来・文殊菩薩・不動明王の三尊を安置した。称して荒神山奥寺域は単に陪山と云った。行基を始め代々の方丈はこの寺内の萬蔵院にも居住した。よって以来この奥山寺を萬蔵院と呼ぶようになった。今の萬蔵院・勝乗院・念仏堂の建物に往古の面影が偲ばれる。

 

当院の宗旨は法相宗であった。該宗は唯識論を正依とし、六経十一論を所依とし、解深密経の一切法相品によって法相の名をたてた。この宗は白雉四年(653)、道昭が唐より我が国に招来した。

道昭は有名な玄奘の弟子であり行基は彼の門から出たのである。

天平八年(736)行基は勅命により更に奥山寺に経堂を造営して大蔵経を奉納した。而して行基は弟子の法海、信勝、良基、慈訓等とともに落慶法要を盛大に執行した。

時に天皇より供養米五石を下賜された。

この経堂及び大蔵経等は承和五年(838)に落雷のため惜しくも焼失した。」

 

寺院の発祥にその行基の名を記す寺は全国に数多ありますが、こちらの寺におけるそれに関して私は納得しています。

 

真宗寺院は「聞法道場」という「講」「寄合」の場を発祥とする場合がありますが、宗旨の違う既存の寺の御堂を借りて構を開き、そのまま道場主(僧侶)もろとも真宗に傾倒、宗旨替えに至る例も多分にあります。

唯念寺もその歴史の中で法相-天台-真宗とその歩んで来られたのですが、それゆえまた真宗寺院とは思えないような遺物が伝わっているのでした。

 

こちらのお寺には書院と呼ばれる建造物がありますが、室町期までは三階建てで「芙蓉閣」と呼ばれていたとのことです。

何らかの損傷があったのでしょう、当時その2~3階部分を撤去して現状残るのは1階部分のみとなります。

その1階部分は「不二之間」と称したそうで(2階は蓮之間、3階は霊山之間)聖武天皇による「芙蓉」の二字が木に刻まれた勅額が掲げられていたことから「芙蓉書院」とも言われています。

その前庭が芙蓉庭園。

後高厳天皇の行在所でもあったため皇苑とも称したとあります。

 

この後光厳天皇は南北朝期の北朝の天皇で南朝方が京都に押し寄せて来た際、近江に退避するわけですが、その「行在所」であったということです。そのために別に清和殿なるものを造営しています。

足利尊氏そして義詮も京都から出て近江方面に駐留する際のベースとしていたこと、法堂の改修に尽力したという経緯から天皇の在所となったようです。

尊氏らも当初の不安定な状況に陥った際は京都を離れてこの寺に逃げ込んだといいます。

昨日記した通り、城塞の如くあったというのはそういった理由ですね。

 

画像は書院の外観と庫裏の土間より。

梅は寒く陽の当たらない場所のものが咲き、陽当りの良い方はまだ蕾だけ。不思議なものです。