昨日は戦時下の映像記録の番組がまたぞろありました。
突然知ったわけですが今度の12月8日で真珠湾奇襲、日米開戦から80周年だったのでした。
以前ブログでお伝えしたBSプレミアムを視聴しましたが、富ヶ谷国民学校の疎開先のアナウンスは「静岡の6ケ寺」という紹介のみで「相良」という名は出ませんでした。
当時の日記のナレーションについては初めてでしたが、拙寺の庫裏前での撮影風景。女の子が髪を切ってもらっているシーンは凝視すれば本堂前であることがわかりました。ソテツと水盤が後方に映っています。
また門前から出てきた子供たちのシーンなど画像はこれまでのもの(当たり前か・・・)でしたね。
祖父らしき後ろ姿の図もそのまま使われていました。
そのあとは地上波NHK新・ドキュメント太平洋戦争1941「開戦 なぜ日本人は熱狂したのか」、そしてETV特集「天皇 開戦への道」へ。
BSプレミアムの方の番組の最後に流れた作家半沢一利の言葉を転記します。
「 満目蕭条(まんもくもうじょう)たる焼け跡の広がりを眺め
そしてあらためて思ったことは・・・
この戦争で空しく死ななければならなかった人たちのことでありました。
多くの生き残った人々が そうであったと思います。
絶対に正義は勝つ
絶対に日本は正しい
絶対に日本は負けない
日本軍は無敵であり 天にまします神はかならず大日本帝国を救い給うのである
このゆるぎないフィクションの上にいくつもの小さなフィクションを重ねてみたところで(日本人は)それを虚構とは考えられないのではなかったか
そんな日本を もう一度つくってはいけない 」
そういった悲劇の途を子供たちに辿らせることはできません。
さて、先日は當麻山無量光寺のお髪塚の土饅頭の上の五輪塔二基
について記しましたが世間には結構に「遺髪」の類を参詣対象にして、墓塔を建てる例がありますね。
遺骨がない場合があるからですが、極端な例でいえば石ころや砂もしくは何も納められていない墓塔などもあったりします。
南方の戦場で亡くなった兵隊さんなど「軍神」と崇められて純白の布に包まれた箱として帰国するも中身は空だったなど当たり前のようなお話でした。
要は遺骨にこだわることなく手を合わせるための崇敬対象ですね。
真宗門徒としてはその辺りの件は宗旨的に問題ナシかとは思いますが・・・しかしその達観は坊さんくらいのもので、昔からその不憫に遺族は涙したといいます。
その「髪」の墓塔ですがお髪塚の五輪塔とは趣を異にした大層な層塔でアピールしているものが東大寺にあります。
大仏殿から二月堂・三月堂(法華堂)のある丘へ上がりその法華堂経庫の隣に凛々しく直立した十三重塔-御髪塔です。
奈良県史から転記すれば「花崗岩製 高さ4m。基礎の背はあまり低くなく、塔身軸部四面は無地造りである。軒の厚みは厚く、たるみは少ない。重量感にあふれた作風で鎌倉後期の造立と思われる」です。
建築の際に使用した髪縄、聖武天皇の髪・・・など伝説として「髪」にまつわるものが数点ありますが、本当のところはわかっていません。
④の奥に見えるのが法華堂。
塔は十三と言いながらも1枚欠損。相輪も見えませんので長い年月の間に何度か崩落の憂き目にあっていることが推測できます。
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