日本城郭大系もお墨付き それでいてお気軽 河村城

境内であれこれと作業をしているとお参りの方とお話しする機会が増えますね。

先日の70代女性は家にいることよりも外で活発に動くを一義に過ごしていること。以前から聞かせていただいていますが、この地区で60代も後半となるとその活動に没頭する方が多いといわれるのがグランドゴルフ。

 

拙寺檀家さんのうちでもその世界で頭角を現す猛者も現れているようです。

まぁ、私の場合はそちらへの方向性は今のところまずナイと言えますが、齢を重ねての体力維持と痴呆進行の抑制のために絶大なる支持を得ている年配者専のスポーツでもあります。

各地で大会も催されるようになってコロナ感染沈静化の今、再びこの地区でも盛り上がりを見せています。

 

聞けば当地の大会の参加者のうち最高齢が95歳といいますからスゴイの一言。

ルールもへったくりも知らない私からすればまさに神がかっているような・・・。

ところがその檀家さんが面白いことを言っていました。

 

「幼稚園の子供たちより酷い」と。

最近の大会ともなるとまず参加者全員が整列し、運営主体の来賓やらそれなりの方たちのご挨拶がまずはつきものと。

私はさすがにそれは「面倒くさいことだ」と思いましたが、御年輩の皆様方はそんな檀上のお話などまったく耳を傾けることなど一切ナシ。

雑談と「早く終われよ、いつまでやってんだ」の決して小さくない声が交錯し「我慢できない」の躰だそう。そもそも人間に我慢を強いることは難しいことは私も重々承知のこと(昨日ブログ)。

 

「ほんのちょっと待つだけなのに・・・堪えられないのは園児以下。子供たちだったら整列してお話を聞く聞かない別にして立っているのに・・・」とのこと。

人は青年期のピークを打ったあと、再び赤子に帰っていくとは聞きますが、まぁそんなものだろう・・・と私も合点。

自身、自制がきかなくなっているような・・・と思うものの奥方は「それは今に始まったことではない」と。

既に老化していたのか・・・いやずっと子供のままだった・・とか。

 

さて、先日記した河村城の続き。

「中世城郭史上に名高い」の最上位のコメントが付されているのが日本城郭体系の冒頭です。

あの辺りでは小田原城惣構えに山中城、そして石垣山など北条対秀吉の城にスポットが当てられがちのため、小田原市内では忘れられた城かも知れません。まぁ、河村城に・・・などの声は聞いたことがありませんでした。

 

小田原攻めの際のこの城のあり方については北側からの守りというのが先日ブログで記した通りですが、実戦については文献に記述が無いようです。

戦闘があったにはあったのでしょうが、ひょっとして城兵は早期に城を捨てて小田原場内に籠っていた可能性もあります。

 

この城の整備に山北町が本腰をあげたのは、城郭体系の評価の如くそのスケールと残存遺構の豊富さですが、かつてのミカン畑を全面的に買い取って公園化したというのは遺跡保存の観点からして好ましいことですが、そのウリというのは自然の真っただ中にある風光明媚と何と言っても発掘された障子堀(畝堀)でしょうね。

山中城のそれをスケールダウンしたものではありますが、北条時代の遺構を感じさせるところです。

 

石垣山も山中城も観光地化が進み行けば必ず人との交錯がありますが、こちらの城址は平日午前中ならばまず人っ子一人いないといったロケーション。

先日は「お弁当」云々記しましたが、お天気で風のない日に➆のテーブルに陣取れば最高の時間が楽しめそう。

 

⑧は障子堀の北側の堀底から本曲輪側を見たところ。

ケヤキが落葉寸前の色になっていました。

最後の図も城郭体系から。西側の急傾斜面の下の点々は酒匂川の河川敷になります。

大手道の図をまじまじ見れば駐車場に連なる道①②は厳密に大手ではないですね。東側からの道になります。

根古屋は山の南側ですので当然にそちらから上がる道がそれでしょう。