感染者は減りながらECMO使用者(重症者)が増えているという現状は不気味です。
テレビで拝見するその装着の様子はあまりのも辛そうで・・・
もっともそれを装着される時は痛みも苦痛も(意識も)喪失しているのでしょうね。
装着されるのは御免被りたいものですが、その時はそれでその効果が無ければENDということですから。
さて、墓巡りをしていてまず目につく石標の文字に「三界万霊」なる四文字があります。
以前の拙寺の改装墓たちが積み上げられたその頂上にその文字がありましたので、私も子供の頃から馴染みのある語でした。
帰敬式の冒頭の「流転三界中」ももう何度も読誦していますし「願生偈」の一節「勝過三界道」またしかり。
その辺りの件はブログでも記していました。三界についてもそちらにさらっと記しています。
その「願生偈」は天親菩薩の著わした『無量寿経優婆提舎願生偈』から。
真宗の偈の中では正信偈ほどではありませんが嘆仏偈、三誓偈とともに拝読の頻度の高いものです。
その願生偈の「観彼世界相 勝過三界道」については普通に
「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり」と訳されていますがその天親菩薩は『仏説無量寿経』(単純に「無量寿経」とも→昨日)を讃えて『浄土論』(無量寿経優婆提舎願生偈)を著わ
したのですがその浄土論を突っ込んで解説しようとしたのが曇鸞大師でした。それが「浄土論註」ですね。略して「論註」、註釈書ということです。
話は飛びますが真宗寺院には切っても切れないお軸があります。本堂余間に掛かる聖徳太子の孝養図はあまりにも有名ですがそのお隣に掛かるのが七高僧。
親鸞聖人が指定された七名の「善知識」です。
それらは阿弥陀世界について伝えた高僧たちですがそれがインドの「龍樹菩薩」「天親菩薩」。
中国の「曇鸞大師」「道綽禅師」「善導大師」。
本邦「源信(恵心)僧都」「源空上人」(法然)です。
その「天親」の「親」、「曇鸞」の「鸞」の一字を頂いて「親鸞」を名のったというのがよく言われていることでした。
その註釈書による「観彼世界相 勝過三界道」のところに記されているのが表記「三界の相」です。
「仏本この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして尺蠖(しゃっかく)の循環するがごとく、蚕繭(さんけん)の自縛するがごとし。あはれなるかな衆生、この三界に締 結びて解けず 倒・不浄なり」
それほどのあわれな衆生の姿を見た法蔵菩薩は本願を起こして阿弥陀仏となった・・・というその我々のありさまが記されているところです。
この三界こそ「虚偽・輪転・無窮」であると。
なるほどといえばなるほど、今の世の中の様子をみていれば合点できます。
そして「尺蠖(しゃっかく)の循環するがごとく、蚕繭(さんけん)
の自縛するがごとし」は2つの虫を出してきての喩え。
「しゃっかく」とは尺取り虫。また「さんけん」とは蚕(かいこ)。
尺取り虫の如く前に進んでいるようで同じところをぐるぐる(循環)し滞るまま堂々巡りの姿と蚕の如く脱皮を重ねて成長しつつ、自らの口から吐く糸(言葉の比喩)で内に籠り敵を造る様子(自縛)。
蚕はその挙句熱湯の中に放り込まれる運命であることはご存じの通り。
それと人間が同じであると見破られてしまっています。
そこのところを「気づいて欲しい」との願いが阿弥陀さま。
たまたま気づきを得て感謝、御礼の喜びが「南無阿弥陀仏」の称名として発せられるのが浄土真宗。
気づき(聞く耳を持つ)が無かったら・・・?
もちろん地獄行き。
真宗では気づけば気づくほど頭が下がるといいますね。
一方世の中のどちらかの場所の者たちといえば、のけ反るが如くエライ人が多くなるばかりで・・・
①は昨日の比木のひまわり畑。
約一か月前の景色とは一変していました。そのときは「すべてがあっという間に」というブログタイトルでしたが昨日視聴した映画(「トゥルー・グリット」)のラストにも「時は駆け足で逃げていく」という語りで締めていました。
本当に本当に月並みな言葉ですが、時は「俊足」です。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉はまた、あまりにも有名ですが、ひまわりたちも頭が垂れていました。
そのひまわり畑というとイタリア映画の「ひまわり」をその度に思い出すのはやはり齢のせいでしょうか。
最近は「この冬を無事に」すごすことができるのか・・・テーマになりつつあります。
まぁウィルスの本来のパワーを発揮する環境とはまさに冬にありますからね。
②願生偈の「三界」の部分。③は七高僧の御軸④は裏書。
拙寺五代目の圓受(1655~1739)が願主に。本山十六代一如(1649~1700)の印。父(先代)の修復がありましたが1600年代の軸。
⑤はいつものECMOnet。
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