須々木は子供多く貧しい 品誕に大公は 小島蕉園 

雨天につき室内の片付け。

やはり雨天は何事も捗りませんね。

低気圧頭痛もありますし、スカっとしたお天気を望みます。

 

昨日は久々に蕉園渉筆から相良の地名関係から引っ張ってきましたが続けて・・・。

やはり海岸線の須々木についてのごく短い記述がありました。

須々木は拙寺初代と石山本願寺に籠城し、晴れて遠州に帰還した五家の一つが入った地で、その五家のうち最も一族数多分家してたくさんの檀家さんが点在している所です。

 

400年以上の経過がありますが五家のうち当地にその名が見えなくなっている家がある中、その繁栄ぶりは特筆的ともいえます。

蕉園のその記述はやはり私にとって昨日同様「なるほどね・・・」なのでした。

それでは原文を。

 

蕉園渉筆  35 「生品胎」

須々木邑、貧民有子数人、近時又生品胎、共無恙、

先官聞、太公々憐之賜金十圓云

 

相良須々木邑の貧民は子数人有り 近時又品胎生まれる

共に恙無し(つつがなし) 先官太公に聞かす 公之を憐みて金十圓を賜うと云う

 

 

品胎(ひんたい)・・三つ子のこと 口×三が「品」となるから

太公・・松平治済(一橋卿)将軍家斉の父 「太公」は父の意

 

小島蕉園の記述からも「須々木に子供が多い」ことがわかりました。

子供が多いと生活は当然に大変になるでしょうが、未来は繁栄と安定が待っています。

 

今の日本の少子人口減少の姿を見ていると将来か思いやられます。

そこへきて昨日の「坂井の民」と同様にかつての代官、「先官」とありますので蕉園の前任の代官(一橋領 相良の代官)の時代のことやはり殿様一橋治済からその件耳に入れると「十圓を賜った」というもの。

やはり殿様の粋な計らいを思います。

 

尚、その単位「十圓」に違和感があるかと思いますが当時「両」を「圓」と呼ぶこともありました。

ということで今の金額で60万~100万円ということになります。

地方の些末が中央に直接届き、その処断が面白い。

 

画像は昭和26年に出された「蕉園渉筆」の解読版。 

顕彰会メンバーには町会議員一同ほか相良のお歴々の名が連なっていましたがその頃までは小島蕉園を盛り上げていきたいという動きがあったのでした。

もはや今の議員さんの中でもまた若い先生方もおそらく知らない人が多いかも。

今の子供たちはその名を言ってもわからないのは当たり前か・・・。

 

尚、本編に関しては現在相良史料館に1冊存在します。

私が相良に来た当初、それを所有していた方を知ったため、そちらを訪ねて家に上がり込んで拝見させていただきましたが、その方は「始末」について悩んでいるとのことでした。

売るか、町に寄贈するか・・・ということでしたが私は散逸不明となることをおそれ、町に寄贈するすることを勧めました。

もっとも売却するのなら「10万円は出せる」と付け加えておきましたが、結局は史料館に収まりました。

とても有難いご判断を頂き安堵させられたことを思い出します。