高天神戦東退組小笠原長忠は富士 坂井の衆は・・・

昨日も当地は晴れ。

古い小さな食器棚を奥方の指令により捨てずに修繕、見栄えよく仕上げようと時間を割いています。

時折訪れるお参りの方たちは早くも「暑い暑い」の連発でした。

 

ある方に「暑いは」まだまだ「序の口でしょ・・・」と言えば「そんな暑そうなところで仕事をすることはない」と指摘されてしまいました。

私も負けじと「目が悪いから暗い場所より明るい場所で」と言い返すも「手元を明るくすれば・・・」とまだまだ続きそうになって私は黙りました。

温度差、暑さ寒さなど耐性もそれぞれ、個体差ありますからね。

 

さて、最近は地元相良のことを記していませんでしたので久し振りに小島蕉園の「蕉園渉筆」から。

 

相良には現在漁港が相良、地頭方そして片浜に坂井港が整備されています。

小島蕉園はその文書の中で坂井港の発祥と人々のルーツに関わる記述をしていますがとても興味深い記述です。それも多方面から・・・

 

まず原文から

『蕉園渉筆 坂井

坂井村民、高天神役移于駿之富士山下、帰住者僅二十餘家、爾後二百餘年、民窮甚矣、近時知投洋中采海帯稍々 致富、凹邑務農、采海帯、朝則夙就業、夜則齊織席、愈勤愈利、買田作船、戸々有畜、然而能守倹、行不躡履、坐不布席、戸数今三倍於古、甲申冬余聞于 太公有賞賜、勵他村里』

 

「坂井村の民は、高天神の役で駿之富士山下に移る、帰り住む者は僅か二十餘家、爾後二百餘年、民は甚だ窮す矣、近時、洋中に投じ海帯を採るを知る、稍々に富を致し、村を挙げて農に務め、海帯を採り、朝は則ち夙に業に就き、夜は則ち齊しく席を織り愈勤め愈利する、田を買い船を作する、戸々は畜え有り、然して能く倹を守る、行くに履を躡まず、坐して席を布かず、戸数は今古より三倍す、甲申冬、余は太公に聞かし、賞を賜る有り、他の村里を勵ます」

 

☆于駿之富士山下・・駿河の富士山の麓に 海帯・・海藻さがら 

 め 稍々・・だんだんに 凹邑務農・・村をあげ農に務め  

 夙・・はやく 齊・・ひとしく 席・・むしろ 愈・・いよ 

 いよ 布・・しく 於・・より 甲申・・文政七年1824

 太公・・松平治済(一橋卿)将軍家斉の父 「太公」は父の意

 

 

まず①「坂井村の民は、高天神の役で駿之富士山下に移る」の件です。いわゆる高天神の戦いについて武田・徳川とも安堵状等を乱発し民を自らの勢力に合力させようとした形跡は見て取れますが高天神戦の場合は地元ローカルとしては命がけの選択をしなくてはならなかったわけでした。

それは高天神城には徳川方の息がかかった時間と武田が占拠した時代があったわけで一族、一家の中でその勢力拮抗の中、勝組を選ばなくてはなりませんからね。

 

画像⑥⑦⑧の看板は原の上、滝境城の外郭台地上にあるものですが徳川方だったことがわかります。後世徳川の世となっていますのでこの手の場合、「徳川方でした」と記すことは都合がいいことで、ごくありがちなことですが、この件は私もその記述の如く考えています(→高天神城年表)。

 

それでは私たちは滝境城の下、海岸線に住まう者として馴染みの深い、現在国道150号線が走る片浜の人たちのご先祖さまはどうなのか・・・というところを思います。

片浜は先日、小学校が廃校になってしまったものの相良では人口が比較的密集している場所ですからね。

 

小島蕉園の記述から私が思わず「なるほどね」と合点して、結論を得たのは(勝手に・・・)片浜の人たちのご先祖様は「高天神城崩れ・・・」と言われる人たちでそれも武田方であること。

その根拠が武田勝頼が高天神を包囲した際の城主小笠原与八郎への開城への優遇(国替え)を勧告した判物です。

 

『駿河国於富士之下方一万貫文之所 遠州城飼郡に引替被下置之永相違有間鋪候 畢竟無疎略嗜武具抽戦功之忠者也依如件 

天正二戌年 七月九日  小笠原与八郎殿   勝頼 判』

 

勝頼の器の大きさ「城を明け渡したら・・・」の譲歩案を小笠原与八郎長忠に示したもので、これを受け入れた長忠はいわゆる東退組として富士の地へ向かったのでした。

勝頼は高天神籠城の諸将に浜松(家康方・・・西退組)の選択の自由をも表していますね。

 

ということで蕉園の記述から②「サガラメを収穫し坂井の港を築いたのは戦が収まった後世、富士から帰郷した旧武田方の衆」といういつものこじつけではありますがかなり信ぴょう性高いものと考えました。

滝境の築城にあたって武田配下の者の定住があったことでしょうしそもそもそちらに居住があって武田方となった人々は「東退」(富士)を選んだはずです。

 

またサガラメを全国レベルにしたという可能性も。

死地と駿遠の地を彷徨って貧困と苦難に接したからこその成功と繁栄があったのでしょうね。

 

そして③「余は太公に聞かし、賞を賜る有り」の件。

相良代官小島蕉園が自身のボス、殿様の松平治済(一橋卿)にその坂井(片浜)の民の勤労と質素の様を報告して賞を賜ったとありますが、そういった細かな庶民の状況を案外と耳に入れていて、殿様は感動し褒美を出しているなど結構に粋で素敵です。

中央に居て下々の生活について詳らかに知る・・・今の政治家よりもずっとまとも・・・と感じます。

 

余計なこととは思いますが看板には滝境ではなく滝堺とありました。

現状「坂井」がこの地の海岸域の名で城といえば滝境城と思い込んでいます。

滝とはラムネ川と渓谷状の「境界」、そして瀧之宮神社など。

 

また「元亀十一」の如く見えてしまいますが「二」にしなくてはならないところを看板屋さんが誤ったものと。看板屋さんの写し間違いは何処でも見られますね。