会館撤去で一番困るのは 田沼意次銅像 地味で清楚

コロナパンデミックの沖縄の状況は酷いもの。

最近は中部病院の医療崩壊間近の状況をテレビ報道から見て知りましたが、そちらの病院で思い出すことといえば右足の甲の部分を切って通院したことです。

仕事のオフの日に沖縄の住まい(当時石川市東山 現在うるま市)で奥方と洗車をしている際、右足を挫きつつ塀の基礎の縁に甲から落ちた時です。

忘れられないのはその時の奥方の顔、ニヤリとほくそ笑んでいました。

 

スグには医者に行かず数日放置していましたが、痛みと腫れに耐えきれず仕事を休んで病院へ。

医師からは「何故スグ来ないのだ!!もう縫合できないよ」と怒られましたがその治療のために傷の中に綿棒を差し込まれた時には痛みのあまりに貧血を起こし気が遠くなったことを思い出します。やはり400m走を全力で走ったあとの気絶寸前を彷彿とさせました。

尚、その時の痛みは「プレデター」と家庭内で了解しています。プレデターが自分の怪我を治療する際の絶叫が森の中で響き渡る不気味なシーンでした。

 

「雷を伴う激しい雨」という予報。九州にはまた豪雨が襲っているよう。

拙寺会館の建物はすべて撤去完了、あとは基礎部分と浄化槽が残るのみとなりました。

夕刻前には足場も全撤去されて前線通過の心配事はすべてなくなりました。

仕事が早いということもありますが、これまで好天に恵まれたおかげでしょう。

 

それにしても再び発見したことが、建物のベタ基礎敷設のいい加減。途中でコンクリが無くなってしまったようで、北側の縁の部分は土の地盤が露出していました。

あの時期ときたら工事は手抜きが当たり前だったようです。

 

会館の撤去で一番に困る者といえば舞鶴殿でしょう。

何せ彼女の安静の場の一つでした。

門に上ってから会館の2階小屋裏に入り込んで休息したり、雨漏りで腐った天井から会館に侵入しあの広いスペースを独占していましたからね。

最近でいう一番そこに愛着を感じていた生き物だったのではないでしょうか。

 

ここのところ、大人数が押し寄せ重機が物凄い音を出していたため、彼女は本堂の縁の下か南側の民家の裏手で棲息していたようです。

静けさを取り戻した昨日の夕、私どもに続いてこちらに入った彼女の唖然呆然の姿を目にしました①。

②お前がやったのか・・・の如く睨まれまれましたから。

 

④⑤は相良史料館横に建てられた田沼意次像。

先週末に執り行われた除幕式は出られませんでしたので昨日が初対面でした。

案外こじんまりの風、コゲ茶色は殿様らしく地味で清楚を感じました。

 

  

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コメント: 2
  • #1

    お祭り大好き (金曜日, 04 6月 2021 00:25)

    今、雨が降り始めました。
    撤去工事が辛うじて無事終了し、大成功!
    田沼意次銅像はそのうちに拝観したいと考えています。
    7/2の本多忠通二代相良藩主の満300年命日に何名が供養碑を訪れるでしょうか?
    生れた時無名の「田沼意次生誕300年記念事業」と比較して、いずれが歴史的意義があるでしょうか・・・。

  • #2

    今井一光 (金曜日, 04 6月 2021 09:46)

    ありがとうございます。
    相良の田沼一本鎗はたまたまでしょうね。
    スキャンダルとはいえわかりやすい人物と歴史がありましたし、その反発もあったかも知れません。
    家柄としては本多の方が上の上なのですが・・・
    私が思うところでは家康の鷹狩陣場ということで家康銅像でもいいし、武田家臣高坂弾正の関りがあったといわれるのでそこいらあたりまで遡ってもいいのかと。
    要は戦国時代をポイントにすれば・・・面倒くさい私の持論でした。