忠如墓追記と江戸名物 「江戸の三富」天王寺の大仏

雨はあがってくれたものの案外と冷えた一日でした。

午後からは風が吹きまくって季節は一歩後退。

新コロ感染者も「解除」しておいて拡大傾向。どちらも苦笑して受け入れるだけ。

 

先日の雨天の日に外ネコ舞鶴殿なのか違うネコなのかはたまた異なる獣類か判明しませんが、庫裏の天井を半分踏み抜いて畳の上がザラザラになっていました。

その畳の異変に気付いた奥方は早速下手人として私を指名して「一体何をした・・・」と問い詰めてきましたが、一瞬とはいえ濡れ衣を着せられて不快なり。半分ズレた天井を目にして疑いは晴れたのですが。

 

その「不快」については何より天井の件が一番です

どうしたものかと恐る恐る元に板を戻そうと動かしてみたら何とか収まってくれました。多少のぷかぷかはありますが・・・

本格的な修理となれば天井裏に上がることになりますので「これで勘弁してくれ」とばかりにそのまま。

怪しくなった天井板、次に踏み抜いたらまさに落とし穴。

その下手人は真っ逆さまでしょう。部屋の中を走り回っていることになってイヤな感じです。

 

天井板をめくった時、梁に手が届いてそれに触れてみましたが案外と硬くて強度的に問題がないように見えたことは少々安心させられました。

ひょっとして梁でも落ちて天井を叩いたか・・・と最悪の事を想像していましたから。

ちなみに天井裏には何かしらの動物が歩いています。

天井下のネコ共が見上げて警戒する様子を幾度も見せつけられています。

 

さて、昨日の麟祥院、本多忠如の墓のエピタフ(昨日画像④)ですが、吉祥寺の叔父に画像を送ったところ「面白かった」と返信がありました。

そしてやはり「刻字はすべて、そして正面から」と注文がありましたがこうこうしかじか・・・弁明。さすがに「女墓場」に3度目の撮影依頼はできそうもありませんからね。

その④画像をさらっと解読してもらうと

 

性倹素且多病不求栄達不喜奢靡佚游暇則凭几読書瀟洒間雅風流自處 中年患痔不便騎乗宝暦甲戌秋請而老焉今侯嗣立乃営菟裘於叡麓之荘 謝客間居所楽詩與書畫優游卒年所著千秋館稿巣雲閣集為巻若乎詩数 千百首東里先生曰其精絶無愧開天諸作者下者亦足以走後生矣公為詩 厳守法律一字不苟必精必密刻意甚勤是以宮商恊度意象衡當見稱識者 蓋祖先皆以武顕世文則公其始哉

安永二年仲春              

                   奥州泉藩 宮田明記                    南勢華岡 滕益道書

 

公以安永二年癸巳十月十五日終享年六十

               釋謚曰葆眞院冲翁玄冥大居士

 

 

佚游暇・・俗な空気からぬけ出る

凭几・・机にもたれて

瀟洒(しょうしゃ)・・俗気が抜けて淡泊なさま 「䔥公」の由来

                  「壷山老侯蕭公之墓」

宝暦甲戌 宝暦四年1754

嗣立・・跡継ぎをたてる

菟裘・・ときゅう 隠居する

宮商協度・・音階の調和

不苟・・かりそめにせず

若乎・・ごときか

叡麓・・東叡山寛永寺の近隣

東里先生・・中根東里 儒学者

安永二年癸巳 1773

 

特に面白いのは最後の部分

「蓋祖先皆以武顕世文則公其始哉」

 

蓋-けだし(おもうに)~

ご先祖様たちは「武」を以って世にそれを顕したが本多忠如公は「文」を以って顕すその始めかもしれない・・・とのところ。

病かちで痔疾でもって馬に乗れないという件、私なら墓碑に「記すな」と怒るところですがその手のことには執着しなかったのでしょうね。

 

何より漢詩の筋には長けていたよう。 

宮商」~きゅうしょう~の「協度」はその意を称賛している

ところでしょう。

 

そして叔父が指摘していたのは当時の儒者、漢詩好きの傾向「中国かぶれ」の件。

「南勢華岡 滕益道書」と墓碑銘の書についてその名が記されていますが実名ではなく中国系の三文字に拘る傾向だと断定していました。当時「知的教養」ある知者とは四書五経を探求し漢詩を詠むことでしたからね。

そしてまた草冠をわざわざ取って「滕」の字を使用するところ

ですが「本名はおそらく伊藤とか佐藤だろう・・・」と推していました。

 

さて、本日も墓場放浪ドはまりとなった友人「女墓場」の取材から。だいたい谷中など歩けば墓地だらけで自身立ち位置迷惑しますからね。

逆にその世界に惚れ込めば飽きることない地でもあります。

江戸の歴史は浅くも人は多い地ですからそれだけ墓たちも無数に存在します。

 

彼女は富くじと大仏で有名な護国山天王寺にフラッと立ち寄ったそう。

こちらは江戸における古刹の一つ。江戸以前からあった寺ですね。

「江戸の三富」と呼ばれる「富くじ」公認の売場で目黒不動と湯島天神とともに賑わったといわれます。時代劇でも時折描かれていました。

そちらにはもう一つ有名な元禄大仏と呼ばれた銅製座像がありますが、今は失われてしまった五重塔(幸田露伴)がもし残っていればそれらとともにそれなりの江戸の名所になったはずでしょうね。