四条畷 田原城 田原対馬守はキリシタンだった~

朝刊一面は「入院拒否に懲役」の見出し。

閣議決定されたとのこと。

まぁ気持ちはわかりますが「だれでも入院の態勢」をしっかり整えてから言ってくれ・・・の思い。

エラい人は即入院、対処の手が厚いようですが・・・

 

そこいら中に自宅療養中に命を失う人がいるというのにね。

まるで「新コロに罹ったヤツが悪い」の八つ当たりの如く。

責任を押っ付けるのはヤメにしてくださいな。

自分たちが国会を閉めておいて美味しいもの食べて遊んでいたのだから・・・。

 

何しろオリンピック会場や宿舎として新築した建物に駐車場が空いている筈。東京都はそちらにコロナ用ベットを増床して看護師を増員して・・・というのが私の思いつくところ。

以前も記しましたがあの鳴り物入りの豪華なスタジアムに仮設のプレハブで病床を設置したらどうでしょう。

その臨機の決断ができないのでしょうかね。

お寒い限り。

 

入院できず自宅療養となればやはりラクではないですよね。

家族がいれば家族にうつすわけにはいかないと不安になりますし、独り暮らしだったらより不安でしょう。

絶不調の中、家事のすべて何から何まで自分でやらなくてはなりませんしね。

独り暮らしでの新コロ自宅療養の恐怖は筆舌に尽くしがたいものがあることは間違いなし。

 

ある筋から入った話。

都内では最近、神主が忙しい・・・との噂話。

それは何故?と聞けば不動産屋さんから引手あまたとのことで、そのお仕事が賃借物件のお祓いとのこと。

独り暮らしだと容態急変の際、救急車を呼ぶ人も居ず、自宅で亡くなるパターンが多いからですね。

よって賃貸物件の部屋でその行為(神事)と「やりました」という証拠写真は次に入る人のために必要だそう。

 

私にはそんな話はありませんからやはり神主はポジティブ、坊主はネガティブのイメージなのかしらねぇ。

もっともそれって、そもそも意味があるのでしょうか・・・

 

さて、昨日の四条畷の件、それでも日没が迫っていましたがここだけは・・・ということで無理に寄ったのが田原城(場所はこちら)。

比高30mの台地で苦も無く立ち寄れますからね。

 

まず四条畷の「田原」地名について。

城郭大系によれば(「小松寺奉加帳」から)この地は10世紀に開発されて「田原郷」。次いで七条女院領に属して「田原荘」。その後「修門院領」「大覚寺領」へと継承。

その間に荘官武士は土豪として土着、鎌倉・室町へと荘園を支配していった」との思索。

その系図は全国的荘園横領と一所懸命の展開と同様です。

 

関東・中部の人間にはピンと来ない城、いわゆる飯盛山城の支城としての存在ですのでこの「田原」の地理概略をやはり城郭大系から転記します。

 

「田原城は大和・河内両国の国境に位置し、古堤街道に沿い、東に田原盆地を望み、西方背後は生駒山脈に続き、南・北は深谷、北の古堤街道は急崖となり、河内平野に通じる重要な地点であり、また北方清滝街道は西は飯盛山を経て河内へ通じ東は山城木津へ抜ける街道をひかえている。」

 

室町初期にはこの田原には田原対馬守の家系がいたことは推測されていますが、昨日のブログ続きですが、彼が「キリシタンだった」ということが分かったのは平成になってからあの墓碑が掘り出されたからであって、私の教科書「城郭大系」には一切触れられていないというのは面白いこと。

時間が経つと新しい情報が積み重なって、時に歴史が変わったりします。

 

まあこの城郭大系の編集年代は昭和56年ですから。

①は飯盛山の野崎観音側に下りて田原城へ向かう通りの図。

この通りから入って飯盛山城の登るのが次の目標。

⑦の台地の先端上部が田原城本丸⑥。

⑧真下に川が流れて堀を形成、こちらは搦手。