真田一族禰津甚平廣之・鎌原筑前守之綱・常田図書春清

昨日水曜日も東京の感染者は「曜日の新記録」。

拙ブログでは昨日「7日連続」と記しましたが実は1日多くて昨日で9日連日の更新になりました。

748人は過去2番目といいますが毎度木・金曜といえば度肝を抜かされるほどの数字を見せられていますから15時にはどういう数字が出てくるやら・・・。

 

ドイツは今、一日1000人近くが亡くなっているといいますから政府は「まだまだイケる」の余裕なのでしょうね。そこ、比較して悦に入るところではないはず。

 

「寒くて乾燥するとヤバいよ!!」との警鐘があった暖かな晩秋初冬の候が懐かしく思う昨今ですが、専門家が口を酸っぱく聞かせてくれた通りになってしまったようです。

歌舞伎の台詞風に記せば「そ~れみろ」でしょうが自然界からはその浅はかさに「ざまぁ見やがれ」と嘲り嗤われているようにも感じます。

 

対応する時間はタップリありましたからね。

何をしていたかといえば「Go しろ!!」の旗振りの通り。

医療機関へのフォロー、バックアップを蔑ろにして「経済 経済」と壊れた蓄音機の如くのオウム返し。

結局その経済とやらを自らの手でぶち壊しにしているという状況がわかっていない様子は口を開けて固まるところです。

 

昨日は「早急に『Go To』を再び元に戻したい」と国交省の御仁から。

その業界へのせめてものリップサービスということはわかりますが現状、「それって今言うことなの?」の大疑問。

一言いわせてください。どいつもいつも・・・アホ・・・。

私の頭の中では一同引っ立てて「三尺高い木の上」に並べられている様子が浮かんできます。

もはや土下座以上、腹斬って国民に詫びるレベルでは・・・?。

 

また新種変異の新コロ対策の件、今の厚労省にやらせていていいのかというのも疑問です。一度決めた「往来緩和」を進めたくて止まりたくないの様。耳を疑うような言葉ばかりです。

イギリスだけちょいと止めてお茶を濁すようなやり方をするようですが異種ウィルスの流行について大臣殿は「日本にはない」発言していました。

ただしその根拠は薄弱といいます。

「検証データが古くそもそも大都市圏では現状検証などしていない」といいますからね。

ガースーも「一人か二人」とか適当な事(1日のイギリスからの入国者)を言っていましたが実際には150人は入っているというニュースも。

 

厚労省の沖縄戦の遺骨収集の件もしかり。

ずっと間違って古い墓の遺骨を収集していた件、ニュースで見ましたが「2年間ずっとその件を隠していた」とのこと。

都合の悪いことは表に出せないという体質こそ墓に埋めるべきかと存じます。ロシアでの遺骨収集もデタラメの「やった感」でした。

 

持ち回りで大臣をやらせて専門家ではないということもそうですがイザとなった時のリスク対応となると往々に馬脚をあらわすこともよ~くわかりました。

 

アベノマスク以来、あの手の人達のお頭は「イカれてる」ということはわかりましたが(桜のウソ八百しかり)国会を閉めてガッツリとボーナス(税金)満額を貰って忘年会はじめ余裕の時間を過ごすって一体どうなの?と単純に思うばかり。

 

それを恕すのは「不思議の国の・・・」やはりアホな国民なのでしょうかね。「恕」は大切なことと教わっていますが・・・

しかし「経済」とやらの旗の下、国民の死屍累々を許容できるか・・・のレベルになっているような。

生き残りをかけて各個人、運にまかせて・・・新コロから逃れたいものです。罹っちゃったらしょうがないですよ・・・

 

さて、昨日の真田一統の墓の続き。

眞田源太左衛門尉信綱と眞田兵部丞昌輝之の墓は金子藷山の時には確かに存在していたということですが、今はといえば昨日の通り、自然石割石の稜線を分けて二人仲良く並んでの石碑でしたが他に3名の墓碑も建てられています。

 

金子藷山の記述の昨日の後段を記します。

「其下手の段には矢張川石に禰津甚平廣之墓とほり入れ又一個の石には『 鎌原筑前守之綱 常田図書春清 之墓』とほり込みたるを読み下すだに涙のたねにぞありける」

 

金子藷山はこちらでも涙していたのでした。

 

彼らが同一の墓所に葬られたというのは一族であったからに相違ないところですが昨日の端折った系図を今一度持ち出して・・・

 

真田幸隆-信綱 長男

    -昌輝 次男

    -武藤家養子入りし武藤喜兵衛を名乗っていた

 

     昌幸 三男

 

の真田幸隆の息子の長男と次男が亡くなって昌幸の真田家継承となったことを記しましたがその真田幸隆の弟たちは各家に養

子として入っています。

武田家は家臣団名家を断絶させまいと殊に尽力するところが各々見えて、とても紛らわしくも思いますがそれだけ家臣団血縁関係が浸透して団結力が上がるところです。惣領以外の男子は他家へ・・・です。

 

その真田幸隆の弟頼綱が矢沢家、隆永が常田(ときた)家に入ってその孫が常田図書春清(永則)。

そのまた下の弟幸定は鎌原氏に養子として入っていますが鎌原(かんばら)筑前守之綱の祖父にあたります。

禰津甚平廣之は一石に独りで記されていたことからも一統の中でも格上を思うところがありますが、「禰津」については真田家の発祥から紐解かなくてはなりません。

 

真田氏は通説信濃小県郡海野荘に居した滋野氏を初めにするというもの。滋野氏はその分家の住む地を名に変更して三家に分かれ(滋野三家)て海野・禰津・望月となります。

幸隆が小県郡真田に住して海野から真田に変更したという経緯があります。

禰津は本流に近い名ということなのでしょうが、当時といえばやはり真田の名は一目を置かれるものでしたからね。

 

よって滋野三家、滋野流とはいえども「真田の一統」というくくりになるのかと。

やはり海野氏は当初武田勢によって駆逐されていますので真田幸隆の一統家生き残りをかけての奮闘と思索が想像できます。

 

こちらに「設楽原戦場考」に真田幸隆についてその辺りの件を記していますので転記させていただきます。大河ドラマ「風林火山」の通り。

「真田郷松尾城の城主真田頼昌が海野一族の棟梁海野頼綱の女婿となり、その嫡男が幸隆であるという。つまり、海野一族の棟梁海野頼綱と真田氏が婚姻関係を結び真田氏がその属将となったのである。天文十年五月、武田信虎と諏訪(頼重)・村上(義清)の連合軍は突如として海野一族を襲った。海野一族はよく戦ったがついに抗しきれず、鳥居峠を越え上州吾妻郡の同族、羽尾幸全のもとに逃げのびた。

翌六月甲州では、武田信玄が父信虎を駿河へ追放し甲斐の守護職に就いた。真田郷へ戻る機会を窺っていた幸隆は武田家に随身していた禰津元直(妻は信玄の妹)の仲立ちで真田郷へ帰り信玄の家臣となった。時に天文十一年十二月十五日。

海野氏は離散したがそれに代わり真田氏が滋野氏海野一族の棟梁となったのである。」

 

真田家譜

「源太左衛門尉(長男信綱)は若年より武勇抜群にして武田信玄勝頼両代のうち攻城、野戦その功績すこぶる多し。力量も普通に超えれば長篠の役にも青江貞次の鍛える三尺三寸余の陣刀(上田市真田宝物館蔵)を提げ、勇戦を遂ぐ。」