身を捨ててこそ 金華山から長良川対岸の鷺山城 

昨日の法要のおはなしは私の座右の銘のご紹介から。

ブログでは以前御朱印パンフのお寺の紹介コーナーで記していたものを久々に。

ただそれを言っても何のことだかサッパリ・・・でしょうから空也さん(またはこちら こちら)と千観さんの問答の件、さらっとご説明。

 

その前に一応その「座右の銘」についての私の考え方を。

「できそうもない大層な目標を掲げて、少しは近づけることができるよう念頭に置くこと」を「座右の銘」という・・・などと言ったら叱られるでしょうが、それをどなたかに聞かれるというシチュエーションは無きにしも非ず。

少しは坊さんらしい気の利いた言葉を「コレだ」という具合に決めていました。

そもそもお念仏に関わることですし、今の私の日々の拘りの数々を持ち合わせているその反省の気持ちでもあります。

空也さんのいう浄土に行くための秘訣とは・・・「いかにも身を捨ててこそ」でした。

 

まぁこの身をまた今を捨て去ることなどできませんが、真宗的にそれを解釈すれば「拘るな」「はかるな」「阿弥陀さんにまかせろ」です。

それができず執着の心まる出しだからこそ、身の近くに置いておかなくてはならない名言なのでした。

 

さて、昨日は猿啄城改め勝山城についての城郭大系の記述中に鷺山城の名がありました。こちらも画像がありましたので本日はそちらの単丘の平山城を。

てっとり早いので城郭大系の記述から。

 

「長良川を挟んで南岸の金華山と対称的な位置にある。

岐阜市より本巣郡へ入る途中にあるこの鷺山は高くはないが(比高54m)周辺の平地の中では唯一の高地である。美濃明細記には文治の頃、佐竹常陸介秀義が居住したとある。秀義は新羅三郎義光四代の孫、佐竹常陸介隆義の子で、美濃国山田郷に地頭職を与えられていた。

戦国期に入ると最後の美濃守護となった土岐頼芸が一時居城とし斎藤道三もまた隠居所とした。」

 

美濃を代表する戦国期の下剋上ドロドロの謀りごとの舞台となったのがこの周辺だったわけで(場所はこちら)。

この城は「高くない」ということもあってごくお気軽、しかし遺構らしい遺構は見当たりませんね。

⑥⑦が金華山、岐阜城です。

 

先般画像をあげた「蝉」のバス停前の通りを行けば鷺山小学校の前に。最後の画像の通り昭和51年の台風水害での深水が殆ど私の身長くらいまであったよう。

こちらの丘が歴史上何度も浮島になっていたことでしょう。

人々が高台を住処に選ぶのは先祖からの経験則なのでした。

 

車は鷺山小学校の向かいで丘の麓の駐車場に置かせていただきました。周辺もブラつきましたが神社が二つあるくらい。宅地化していました。

今度の氾濫にどう対応するのでしょう。