狸谷山不動尊から上がる東山勝軍地蔵山城

世界的な新コロ再感染拡大期の到来の様を見て大晦日「除夕鐘」(昨日)を「ホントに挙行して大丈夫?」と疑問に思います。

まぁ何度も記しているように鐘楼は外にあって外気と紫外線に晒されている場所ですのでまず、「2mのディスタンス」が守れれば大丈夫とは思いますが、行列ができてしまったらその2mはなかなか厳しいです。

人と人とのすれ違いなども特にまた・・・

日本には「袖触れ合うも・・・」という外に出て人と接することの大切さを思う言葉がありますが、こういったイベントでその件、強く進められず、むしろそれは「イカン」というのであれば本来の「寺に集まる」という意味を逸脱してしまうのですね。

 

まぁ鐘を衝いてスカッとする・・・何かを思う・・・という機縁の方は残りますが・・・

 

さて、先週の大河ドラマで登場した城郭の名称を記すと芥川城はじめ飯盛山城に細川藤孝の勝龍寺城の名が出ましたが、台詞の流れの中でさりげなく出ていたのが「将軍山」の名。

三好の一統が本圀寺を襲撃したのがその山から降りる軍勢に幕府警護方が気づかないわけがない・・・と訝るシーンでした。

京都東山にあって洛中は目と鼻の先、それでいて近江との国境にも近く京都中心地からすれば敵方に占拠された場合、枕を高くして眠るわけがいかない地ともなります。

東山の尾根伝いに移動して京都中心地に軍勢を展開させるにはうってつけです。

 

先般ブログにて宮本武蔵の一乗下り松について記しましたがその道の先を行くと狸谷不動尊に突き当たりますが、その裏山こそ将軍山。

ちなみにそちらにも武蔵関わりの遺構がありました。

彼が修行した滝との石標が建っていますが・・・まぁ私の目的はそちらではありません。

 

こちら狸谷山不動尊の縁起はもとはと言えば平安期に都の鬼門(北東)封じのために桓武天皇がこちら京都盆地の東側山系に設けたと伝わりますが著名なのは木喰養阿が創建しているということ。

木喰とはその名の通り草木根皮を無調理で食して生を維持する行のことで、一般的には修験道。

私の如く野菜嫌いの不健康者からすればそれを聞くだけで凄いものだと恐れ入ります。

 

煩悩の最たるものとして「食」の贅沢があげられますが、質素すぎるそれを基本とした生活はまさに煩悩を滅した姿。

ただし木喰養阿の凄いところは修行と称して閑居山中に籠るではなく街や街道に出て念仏行脚し供養墓の建立に道路の改修工事に携わったというところでしょうか。

ちなみにそれに関わる件、ブログでは「割られた名号  粟田口 明智光秀の首の行方」で記しています。

 

そちらの長い階段を上がると懸造の本堂がお迎えしてくれますがそのさらに上方、将軍山城への登城路へと繋がります(場所はこちら)。

 

私がそちらに取り付いたのは早朝でしたので薄暗く人っ子一人すれ違う人は居ませんでした。もっともその帰りもどなたともお会いしませんでしたが・・・