高槻の芥川山城は自然溢れる学園都市の一画 摂津峡

先週末からの冷え込みによって寝床に毛布を登場させています。

同時にネコどもが布団の上に集結し油断がなりませんね。

上掛けが引っ張り剥がされて風邪をひく恐れがあるからです。

これまで床の上で寝ていたくせに・・・彼らも季節の変化をしっかり感じ取っています。

昨日ブログでは一昨晩の大河ドラマの二条城普請の一コマについてについて触れました。

二条城といえば現在の観光客が怒涛の如く訪れるあそこではなく、武衛陣町のそれを記す石柱と看板のみの場所(現「平安女学院」の一画、路地の入口)で、より御所の近くです。

 

そしてその回のドラマでのもう一つの舞台が芥川城でした。

その名を記すしますと一部紛らわしいと言われそうですが、厳密に言えば芥川山城のことですね。地元では三好山。

私がその城址を求めて無意味に走り回った時の印象といえば、ここにもあった平安女学院・・・でしたが、その回のドラマで出た2つの城ともその学校の名が近くにあったということ。

 

もっともこちらは高槻という京阪のベッドタウンてはあるものの少々奥まっていて摂津峡という景勝地も近くまさに自然に近しい場所。以前行った高槻城あたりとは雰囲気がまったく違います。

そしてそういった環境からして他にも関西大学などの教育機関が集まっているエリアです。

山の名を三好山と呼ぶのは勿論長慶を主に三好の一統が入った山城だからですが信長がこの城に入った理由こそが三好に代わって「畿内を獲った」のアピールですね。

 

永禄初頭の1560年に三好長慶は河内飯盛山城へ移って息子の三好義興を芥川城の城主として置きますがこれは長慶による次期家督相続者のアピールです。

 

当時は何を隠そうこの芥川城こそが畿内中心地のイメージがあったのかと。

永禄十一年に織田信長が難なく入京できたのは永禄六年(1563)に義興が芥川城で急死し翌年(1564)に失意のうちに長慶が飯盛山城で亡くなってしまうというタナぼた的幸運があったことが大きいのでは・・・

 

ただ現地に行ってこの芥川城が何故にして畿内の要衝になりえたのかという気持ちが沸き起こりますがただ一つその理由は西国街道が近くに走っていることでしょうか。

西国から入京直前の位置にあって人とモノを抑えるにはうってつけの場所かつ、芥川が削る谷と崖が城の要害性をアップさせて城郭として機能させたのでしょう。

 

あの時、畑仕事をしている方にたまたま声を掛けたのですがその方が三好山の歴史に詳しい方で登城の地図をくださったおかげで何とかなりました。

 

芥川橋を渡って「摂津峡大通り」(場所はこちら)に入ってから東側の尾根から回り込むのがポイントです。

④の尾根左側辺りが削平された主郭になりますが、西側には芥川(摂津峡)が流れています。

②は芥川橋から見た高槻市街に流れる芥川。