石造遺品の珍品 文殊師利の踏み蓮華石

境内にて雑用。

お昼に衝かれる鐘は今年三回目、ラストになります。

その鐘撞運動を始めた拙寺檀家さんが言うには周辺地域の梵鐘があるお寺に広がりつつあるといいます。

当流では鐘を衝いて3.11震災死没者と遺族そして人々に「忘れません」を訴えるものとして「勿忘の鐘」が衝かれていますが

これは宗派を超えたものですね。

 

ただし「ちょっとムリ」というお寺もあるようですね。

何故ムリかと言えば「忙しい」ということなのですが、私なら坊さんが抱え込まないで各世話人会に掛けてしまえばイイと安直に考えます。

各組持ち回りで「今年はあなた方、来年は私たち」というように地区ごとでお願いすれば・・・と考えます。

子連れの親子ならきっと興味をもってくれるはず。

その「お願い」の触れを出すことがまた「忘れずに思い出される」ことに繋がります。

忙しくて大変・・・といってもたった7回衝かれるだけですからね。

私の場合は時間がタップリあるうえに檀家さんが時間になるとふっと現れて、黙っていても衝かれるようになっています。

とてもいいことですからずっと続けていきたいことですね。

 

昨日の私は庫裏と外を出たり入ったり。

外の雑用と案外と多かったお参りのお客さんの対応、そして39℃オーバーとなった浜松ほどではないまでも境内も庫裏もホットで頻繁にクールダウンが必要でした。

 

日が暮れてからずっとNHK。

先般亡くなった若手俳優さんの遺作となったドラマ(「太陽の子」)に続きNスぺ「忘れられた戦後補償」にはまた怒りを覚えました。

あまりにも衝撃的で私の無知を覚えとするため新聞のサブタイトルを記せば「民間戦争犠牲者80万人 国家暴走の果ての悲劇報われぬ被害の責任は 膨大な資料で徹底検証」です。

 

軍人への恩給は年々積み増され、空襲等民間被害者の補償を無視しつづけ軍人の戦犯軽減と厚い恩給を決めたのはやはり今も悪名高い旧厚生省の官僚たちでしたね。

ドイツもイタリアも戦後は自国戦争被害者に対して軍人も民間人も差別なく補償の手を伸ばしている中、日本は「戦争だから仕方ない」の一点張りで民間の権利を一蹴してきたのです。

現在も年老いた戦争被害者の皆さんはその補償運動の継続をしているということも初耳のことでした。「戦時災害援護法案」なる法案は国会で14回も廃案となったというのも。

 

空襲で足や手をを飛ばされたのは誰のせい・・・運不運、戦争だからで片付けていいことでしょうか。あの方たちが生きている今、やらなくていつやるのでしょう。

やはりお国は毎度毎度の「死に待ち」のダンマリスタンスということでしょうね

火傷ケロイドと手足の損傷によって「世間に出られない」方が「補償とは生きている証」と仰っていましたがこの日本とはそれに着手できない国だということです。

民間の無慈悲な言葉にその補償に対して「乞食根性」なる声が上がるということにもショックを受けました。やはり今言う「補償警察」が居たわけです。

 

22時からはBS「果てなき殲滅戦」(日本本土上陸作戦の舞台裏-日本には一般市民はいない 皆殺しにせよ-殺しの正当性)まで8/15をテレビ小僧となって過ごしていました。

「オリンピック作戦」たる名称があったそうですが広島長崎に次いであと原爆を9個用意しての本土進攻が計画されていたとのこと。

 

さて、石造美術に関しては色々分類を記させていただきましたが般若寺にその中でもかなりの珍品があります。

 

こちらの本堂の図面に「文殊」の語が記されていました。

叡尊が建長七年(1255)から文永四年(1267)にかけて般若寺の本尊の文殊菩薩像の造立をしたとありますが、「丈六」と呼ばれる特大サイズ(その上の大きさを「大仏」・・・)のもの。

本体は焼失して残っていませんが、文殊の「のりもの」の獅子の脚が掛かる「踏み蓮華石」です。

 

あの踏み石をみるだけでその大きさがわかるというもの。

最後の画像が今ある般若寺の文殊菩薩。

踏み石がわかります。木造 像高46cmとミニチュア版ですが鎌倉期のもので重文指定となっています。