最低は私か 勝手にしやがれ 無縫塔と六角石幢 

昨日だけで全国で1237人の感染者。死亡者も5人増えました。

官邸無策はずっと続きそうですから、お隠れあそばされになっているソーリ殿はきっとたまたま感染爆発の無いこれまでの日本の状況に続いて今後も「季節性の風邪」程度に考えて「運を天に任せる」(運天)が如く「洞が峠」を決め込んでいるのでしょうね。

大博打に出たのです。殆ど傍観のよう、経済を動かす方にシフト。

感染が運よく収束傾向に向かえば「オレ様のおかげ」と鼻の穴をおっ広げて吹聴するでしょうし、感染が広がってウィルス優位になったとしたら、「全力で国民を守る」「迅速に躊躇なく」などのお決まりの言葉でもって大ホラを吹きつつ「専門家の判断による結果」であると責任を他に擦り付けることでしょう。

私たちは昨日記した如く、地獄を見させられるのでしょうか・・・

まったく未だかつてない「最低」のソーリ殿。

 

さて、突然動かなくなって檀家さんの車屋さんに修理を頼んでいた軽トラが返ってきました。一時は街道筋に並ぶ中古の軽トラを見て歩くほどでしたが、何とか修理仕上げていただいて嬉しいばかりです。

電装系ひと揃え交換してもらって43000円弱の出費で痛いといえば痛いところですが、中古購入となればその10倍は覚悟しなくてはなりませんからね。

 

お盆休みの墓参り前に一旦たまりにたまった花ガラを処理場に持ち込みましたが、水・木辺りで音を上げるところ、限界でした。それこそ「おまかせ」するしかないわけでしたがイザとなったら布施氏に軽トラを出動していただくことになっていました。

ブログを見て「いつでもどうぞ」と仰っていただいていましたがそれはかなり気がラクでした。

 

梅雨明け以降、私の外仕事はアカマツの剪定をぼちぼち。軽トラが無いと仕事が進みませんので松の剪定程度。

~画像④は溜まったガラを積んだ荷台。処理料金400円でした。右前方に高さ3mほどですがアカマツが見えています~

コレをやっていると奥方はイラつくようで、まぁ一向に仕事が進んでいるように見えないので仕方ないのですが、あとクロマツが2本ありますのでそれに取り付けばきっとまた苦虫を潰した顔になります。

「もっと他に仕事があるだろう・・・」。その通りですが・・・

 

池新田の叔母の家の外周のカイヅカが伸び放題、静波墓苑の外周そして墓地の雑草も・・・うんざりするほど仕事があってまったくため息が出ます。息子が帰ってくれば手伝ってもらいたいところですがね。

ただし私には「何もしない」という選択肢もあるのです。

 

雑草は伸びても冬には枯れましょう、外周は伐れば伐ったで木々は喜んで生育するのでまたあとでのんびりやれば・・・というところでそれほど焦っていません。

いずれにしろ何にしても「勝手にしやがれ」(本日も映画のタイトル)です。ちなみに私は学生時代フランス語は大嫌いでまったくもってギリギリの「最低」でした。それでいてそれを恥と感じない開き直りの躰です。まぁ苦手はフランス語だけではありませんでしたが。

 

例によって昨日の続き。①画像に無縫塔(卵塔)が3つほど。

この形状はまず寺の墓地に並べば坊さんの墓とみるのが常。

ただし真宗寺院においてはその外です。

②③は牧之原市の六面六地蔵石幢。劣化がひどすぎて何だかわかりませんね。それでいて江戸時代のものといいますから・・・石質が悪いのにあたったということでしょうか。

 

石造美術の分類    「奈良県史7 石造美術」

清水俊明  奈良県史編集委員会

11 無縫塔

無縫塔は塔身が卵形のもので、卵塔とも呼ばれている。

卵形は縫い目がないという意味から無縫塔というのであって、中国禅僧の墓塔として造立され鎌倉時代に宋の禅宗文化とともにわが国に入ってきたものである。

京都や鎌倉方面に古い遺品が見られるのも当初にそうした禅宗寺院に造立されたのを物語っている。

室町時代以降は他の他の宗派寺院において(当流以外)も用いられるようになり、僧侶の墓塔として流行するようになる。

無縫塔の形態には二種目があり、重制と単制の二形態に分かれている。

重制は基礎・竿・中台・請花・塔身からなり、単制は基礎・請花・塔身の構成になっている。

前者は塔身の高さが低く、後者は高いのが特色で基礎・竿・中台は八角または六角造りとなるのを普通とする。

古い禅宗寺院の少ない県下には無縫塔の古い遺品はほとんどないといってよいほどで、室町末期から桃山時代のものが古い遺品である。

 

12 石幢 せきどう

石幢は多角柱状の幢身を造るところに特色がある。

中国の唐時代に盛んに造られてわが国では岡山県保月六角石幢が最古の遺品であり、鎌倉時代嘉元四年(1306)に伊派石大工井野行恒の作として有名である。

六面幢身に仏・菩薩・明王像をあらわし、その下方に銘文・偈文を多く刻んでいる。

桜井市経ケ塚山の石幢は八角柱状の幢身の八面上部に如来・菩薩の種子を刻んだものであり、現在後補の四柱形笠石を載せている。談山神社参道の摩尼輪塔の形式とよく似ているが、経ケ塚山の石幢は八角の八面すべてを使用するところに、笠塔婆と石幢との分類の違いがある。

五條市畑田西福寺の石幢は前記二基のような単制式石幢とは異なり、基礎・幢身・中台・龕部・笠・宝珠よりなる重制式石幢であり、外部は石灯籠と同じで、火袋の部分が龕部と称して火口がないだけである。

その龕部の六面に六地蔵を配しており、笠の各隅に蕨手を設けないところも灯籠と異なる。

西福寺六面石幢は室町中期大永八年(1528)に一結衆三十六人の造立したもので、こうした六地蔵を彫った石幢は、地蔵信仰の普及した室町時代以後各地で造立されることが多くなる。