Nスぺ「沖縄戦」 廃仏毀釈憎し奈良般若寺笠塔婆 

拙寺では8月になると広島、長崎そして「8/15」の三回、それを伝え聞く私たちがあの戦争で命を失った人たちのことを省みて「鐘を衝こう」と「決して忘れません キャンペーン」の如くの小さなイベントに協力しています。

もっとも鐘撞は檀家さん有志の手によりますので、私は何もすることはありませんが。

 

お国のやることなすこと今のトンマで間抜けのお姿を拝見し、まるであの戦争と同じだな・・・と感ずること多々ありますが、昨日のNHKスペシャル「沖縄 “出口なき”戦場~最後の1か月で何が~」を視聴しました。

私も若いころから沖縄にいて、沖縄戦(鉄の暴風)について書物や現地を回って多少の知識を得て来たつもりでしたが、あらためて日本軍というものの「あの時」の方向性に腹が立ってきました。もう言い尽くされてきたことですが・・・

沖縄での日本の敗戦が事実上決した(日本軍の総司令部があった首里が陥落)にも関わらず、その後に多くの住民が犠牲になってしまったその理由です。

 

「頑張れば頑張るほど傷口は広がり、立ち直れないほどに崩れる」ことは何事にもいえることだというのが持論の私は法要などで「頑張るな」も正論・・・などと(時に子供達には無責任も思われるかも・・・)言い放っている私ですが、あの時日本軍は「最後の一兵まで徹底抗戦すべし」と民間人が避難集合する南部方面に移動し、住民たちと混在し、時に軍服を脱いで民間人に化けてゲリラ的に戦闘を継続しました。

 

米軍の証言から沖縄戦特攻機によって苦しまされた「恨み」増幅し民間人と戦闘員の区別も付けなくなって、無慈悲に無感情でもってひたすら砲撃を加えたということでした。

早い段階で軍が降伏するなり戦闘を放棄していれば、あれだけたくさんの民間人が犠牲になることは無かったということです。

 

番組中あらためて知った、あるいは思い出したことで衝撃的だったことをあげれば

①「VT信管(近接信管)」付きの爆弾により~これは航空機・特攻機対策でできたものだそうで発信電波等によって~目標を把握し直接命中しなくても爆発するというものの存在。

当所の対航空機から地上戦に転用されたといいます。

残酷無比の対人爆弾と化したそれはたとえ壕に隠れたとしても空中で爆発しますのでその破片で命を落としたとのこと。

②ガマ(洞窟)の中は民も軍も混在していたことは聞いていましたが、番組では飢餓状態に陥った軍人が民間の少年の持つ黒糖を奪い取り、少年がそれを取り返そうとしたとき拳銃で射殺したということ。

親もそれを目の当たりにして声が出せなかった・・・という証言。

戦争だから・・・では納得できないところ。

③首里陥落して「徹底抗戦」を主張したある大佐はたくさんの人たちを死の淵に追いやったのだともいえますが、32軍総司令官牛島中将が自決したあと、ちゃっかり投降して生存していたということ。

 

元はと言えば「一旦立ち止まって振り返ってみる」ことができないという組織トップたちのありかたなのですが、まさに今のコロナ対策と同じ。

どなたか「これは戦争です」などと都合のいい時だけそれを使っていましたが・・・

 

さて、本日も昨日の続き。

笠塔婆の代表的なものといえば奈良般若寺でした。表記画像です。代表的石工「伊派」の手による遺物ですが、明治の廃仏毀釈のドサクサはこれだけの名品をぶち壊しててたのでした。

奈良という地は特にその過去を背負っています。

明治維新、廃仏毀釈そして続いた戦争の時代、今のコロナ禍対策の病因は同じところにあるような気がします。

 

 

石造美術の分類    「奈良県史7 石造美術」

清水俊明  奈良県史編集委員会

7 笠塔婆

方柱状の塔身または板状の塔身、あるいは自然石に仏・菩薩または種子をあらわし、そのうえに別石の笠石を置くものを笠塔婆と分類する。

塔身は根部を作って地面に埋め立てるものもあり、基礎を作って立てる場合もある。

笠石も塔身の形に応じて宝形造り、方形、または自然石の場合もある。塔身の面積が広いので、刻銘を刻むことに適している。

笠塔婆の遺品としては有名な奈良市般若寺の笠塔婆二基は、鎌倉期弘長二年(1262)に宋人石大工伊行末の嫡男伊行吉が亡父の一周忌の菩提供養のため、ならびに現在の母のために建立したことを塔身部に刻んでおり、種子・偈文・真言・小呪など、長い柱状塔身部の面積を十分に活用している。

塔身上に宝形造りの笠石を載せ伏鉢・請花を備た宝珠を載せて

造形的にも実に優れた笠塔婆である。

 

桜井市多武峯の談山神社参道に立つ乾元二年(1303)造立の摩尼輪塔は塔身部が八角形の柱状であり、その正面上方に大きい宝珠形月輪を作り出し、胎蔵界大日の種子「アーク」を刻み、四柱形の笠石を載せたもので、八面造りから石幢に分類すべきとの説もあるが、正面に種子・銘を刻んで他の面を使っておらず、方形の笠石を使用するなどの様式から笠塔婆に分類されている。

奈良市南風呂町阿弥陀寺笠塔婆は、細長い塔身正面上方に「ア」の梵字を刻み、その下船形内に弥陀立像を彫り出したもので、下面に室町初期応永十二(1405)の造立年と「尼妙円」の法名を刻む。こうした整形された笠塔婆は室町時代以降に流行する。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    くりくり (月曜日, 03 8月 2020 23:12)

    徹底抗戦って本当に意味が無いですね。戦争も外交手段なんだから、目的もなく戦ってもだめですよね。軍が負けたのなら終了させないと。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 04 8月 2020 07:19)

    ありがとうございます。
    そう意味から考えれば古くからの国内の戦争というものは責任者が腹を切るなり本拠地を退去するなりして支えてくれた人々の無駄死は避けました。
    籠城して火が掛かったとしたら民間人女子供は逃がすというのが手筋。
    逃げ惑う女子供まで「なで斬り」する信長のやり方もままありましたが攻め手もそこは許容するところでした。
    総大将の「城を枕に」・・・という言葉通り責任者は自己の行動を律するに潔かったものですが。
    明治以降、精神論が跋扈し同時に「責任の取りかた」が曖昧になってきたのですがそれは日本特有の変遷だったのかも知れません。今はもっと酷いものです。