石造物とは 「層塔」の教科書的遺物 奈良般若寺

「Go To ~ キャンペーン」の「~」のところ、その実感する語(トラブル・・・)を各入れるようになりました。

昨晩の半端ではないような「過去最多」なる数字(全国で1251人)を見て私はただそのまま「全国感染」の文字が相応しいかと思いました。

 

それこそ政府のやりたいことが出現しつつあるのでしょうね。

「Go To 感染 キャンペーン」を強行するその意義を今一度聞いてみたいものです。「何がしたいの・・・」それが今大好きな語「持続可能性」というヤツ?  ただ疑問ばかりが残ります。

 

感染者の増加はそのキャンベーンの始まる以前の数字が今出現していて、これからもっともっと、正気ではいられなくなるような突飛な「成果」を見せられるのでしょうが、そういった強烈な数字が表れるということは基本的に政府の認識が甘く、対応後手後手の思いつき、そしてずっと緩め緩めの対策、要は経済優先の舵取りを取っていたことが理由でしょう。その発信する雰囲気(病気は大したことない)は庶民の心底に浸透してしまったということ。

 

混乱に次ぐ混乱を惹起させたソーリ殿はこれをどう収拾させていくのでしょう。無策と呑気な態勢はそもそもその舵取りの如く本筋であったはずの経済をメタメタに貶めていることがわからないというのは痛するのでは・・・。

イイ加減気づいて欲しい・・・自身の間抜けさを。

 

さて、昨日の続き「墓場放浪」について。

一旦基本に返らせていただいています。

石塔墓碑類について私が「教科書」としてしているのは川勝政太郎氏や清水俊明氏の書籍です。

ブログでは折に触れて「歴史的石造物」の美的な側面から独り善がりかつ軽薄な紹介をさせていただいておりますが、ある程度の件数が重なってきたためこの辺りでその「石」について一旦どういった形式があってその概略を復習する必要があると思いました。ブログではその辺りのところまったく無視していましたからね。

 

そこで私の知り得るその手の書物の中で手っ取り早くまとめられた「奈良県史7 石造美術」清水俊明~が手元にあり冒頭に石造遺物とはどういうものか・・・と簡略明記されていますのでそちらを転記させていただきました。

 

その冒頭で石材を利用して造られた飛鳥時代以降の歴史時代の石造遺品を指して「石造美術」と称するとあるものの、そのすべてにおいてその名称を使うことは難しいとあります。

 

「美術的」の感覚からは離れるものもありまた時代を経て大量

生産されるようになってから石造物製作の技術・力量の退化があるから・・・といいます。

 

 

未来永劫遺すべき遺物であるとはいうものの、カタチあるものその形状の維持は難しいものがあります。かといいそれらを保護したい気持ちは変わりありません。

大雑把に歴史的石造物のくくりにどういった分け方があるかを知るための最低限の知識として拙ブログにも残したいと思い

また遺れる者たちがそういった遺物の存在とまたさらに次にバトンタッチしていかねばならないという気持ちを起こしていただきたくもありそれの入門的解説書の存在を紹介したくこちらに少しずつ抜粋、記することにしました。

 

 

石造美術の分類    「奈良県史7 石造美術」

清水俊明  奈良県史編集委員会

 

石造美術の研究をしていくには、分類が必要であり、構造形式による分類が先学によっていろいろ試みられてきた。

故・川勝政太郎氏はその著「石造美術」のなかで、それを二十五項目に分類されている。その分類は次の項目である。

 

1層塔 2宝塔 3多宝塔 4五輪塔 5宝篋印塔 6一重塔

7笠塔婆 8自然石塔婆 9角塔婆 10板碑 11無縫塔 12石幢

13石仏 14石室 15石橋 16石灯籠 17炉 18水船 19石鳥居  20狛犬 21石碑 22石臼 23露盤 24台座 25石壇

 

分類上の名称においては、構造上、いろいろ構造の異なるものもある。たとえば石仏においても、笠石を使用したものを笠塔婆に加えることなど不合理なことといわねばならぬ点もあり、分類のほかに項目を加えていくほうが便利である。

 

1 層塔

 

「石の層塔は本来木造建築の層塔と同じ意味を持っていると考えて良い。その語源はスツーパ(stupa)であり、それが中国に伝えられ卒塔婆となり、略して塔婆となり、また塔と呼ばれたものである。

仏塔は釈迦如来の遺骨、すなわち舎利を納めるために造られた塔であり、インドでは石造、または塼(せん―煉瓦)造りであったものが西域を経て中国に伝わり、その国の民族性、資材、信仰などから構造様式の変遷や造形があり、日本の木造建築構造の層塔は中国の塔の様式を受け入れたものである。

石造の層塔も奈良時代から遺品があり、その後近世に至るまでの層塔が多く残っている。

 

層塔は三重以上の層が多いものを指していう。

一般には平面が方形で、六角十三重塔(奈良市長谷 塔の森)も奈良時代に造られている。

 

基礎の上に塔身(初軸)を置き、塔身の上に屋根石を積み重ねるが

その層数は三重、五重、七重、九重、十三重ですべて奇数からなり、偶数のものや奇数でも十一重のものがあれば、寄せ集めか欠失する部分がある塔である。

最上層の上に露盤が造られ、その上に相輪がのる。

相輪は伏鉢(ふくばち)・請花(うけばな)・九輪・請花・宝珠の五部からなり、なかには九輪の上に水煙を四方に造り出したものもある。

 

基礎の側面は素面が普通であるが、一面または四面に輪郭を巻いて格狭間(こうさま)を入れるものもあり、側面に銘文を刻むことがよくある。

塔身(初軸)は層塔の中心であり、四面に像または種子(しゅじ)で四方仏をあらわすものが多く、古い時代のものには顕教系

(東・薬師バイ、 南・釈迦バク、 西・阿弥陀キリーク 北・弥勒ユ)を配置する。

 

のち密教が広がると東・阿閦ウーン、南・宝生タラーク、西・阿弥陀キリーク、北不空成就アクといった金剛界種子四方仏が多くなり、胎蔵界の宝幢ア・開敷華王アー・無量寿アン・天鼓雷音アクの

配列も数少ないがある。

密教系像容四方仏もあり、特殊な種子・像容の混用するものも時には存在する。

 

密教系層塔の場合は塔そのものの根本となる主尊は大日如来であることはいうまでもない。」 

 

 

 

 

 

 

画像は奈良般若寺の十三重塔重要文化財(場所はこちら)。

この遺構こそ我が国の石造層塔の教科書的存在で高さは12.6mと京都宇治の浮島十三重塔には及ばないもののそれに並ぶ「造形美」を提供してくれます。

推測される石工は伊一派の手によるものと言われるもの。

これは昭和39年に解体修理されたおりに第四重目より出現した法華経箱の墨書「建長五年癸丑卯月八日奉籠之」が出て造立の年代1253年のてがかりとなったとのこと。

清水氏による「上層屋根にかけての逓減率はみごとで美しい旋律を感じさせる」にそのすべてを物語っています。

「塔身四隅に面取り、四面に二重円光背を線刻して、蓮華座に座す顕教四仏(薬師-東 釈迦-南 阿弥陀-西 弥勒-北)をごく浅い浮き彫りで表現している。」

 

特筆すべきは夥しいほどに出現した納入品の数々の出現。

「第一重から金銅舎利塔・金銅五輪塔・水晶五輪塔(いずれも鎌倉期)、第四重には宋版細字法華経一部七巻と建長銘外箱と明治時代の石塔再建記、第五重からは奈良時代の銅造如来像と鎌倉時代の仏像(大日・十一面・地蔵)その他。第八重からも鎌倉時代の銅造十一面観音像を始め江戸時代の木造仏・曼荼羅・などが出現した」

 

他にも室町期、文明・延徳、そして永禄の兵火による被害についてもその納入品の中から記されたものが出てきているとのこと。

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (木曜日, 30 7月 2020 08:48)

    私の興味は「それ以前」。「酒船石」などの石ですね。
    遺跡もその一つ。
    今度 総裁選があっても「安倍」とは書きません。投票しません。
    あまりにも情けない今の状態。ちなみに前回は「石破」でした。
    ところで「お取り越し」はどうなんでしょう。
    私としては行ってもいいと思うのですが。
    人を呼ぶことは控えたほうがいいのかな。
    身内だけだと「お取り越し」の意味合いが薄れるかもしれませんが
    どうしたものでしょうか。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 30 7月 2020 09:58)

    ありがとうございます。
    明日香はいずれお寺のバス遠足で行こうと考えています。
    不思議な石造物が多くありますね。
    年配者を歩かせるためにルート設定について悩むところです。
    「お取り越し」について基本は「おまかせ」ですが、そのあたりの状況を見て
    臨機に御判断いただければと思います。
    秋口となれば一層難しくなるかも知れませんね。悩ましいところです。