宣教師はジュストの調略 大河で盛り上がった明智城 

スペイン宣教師によるキリスト教流布(「心」の奪取)による世界制覇の野望は秀吉の気づきと家康の賢明によって排除されたという事実は私ども真宗門徒はじめ仏教徒全体にとっても日本の将来においても僥倖だったわけです。

 

あの番組(布教による富の搾取)を視聴するまでは戦国末期の宣教師の布教活動とは私ども仏教の宗旨は各違えども坊さんが辻説法をするが如くの延長の如く感じていました。

 

私がルイス・フロイス「日本史」の記述中、真宗はじめ各仏教の僧侶たちを罵倒するようなところを見たとしてもかつてあった日蓮等の過激な発言の延長程度とも受け取れましたし仏教と日本文化に対する造詣の<浅さ>からくる短慮そして、自前の宗旨の優越性を主張することは致し方ないことであるとも考えていました。

その宣教師たちの使命と目的が判別できた今、これまであった秀吉から江戸期のキリスト教排除の政策について、「汚点である」と思いがちだった私の考えは少々改めたくなったことを前回ブログにて記しました。まんざら「致し方なしなのか・・・」ですね。

 

これは語弊があるかと思いますが、今言う信教の自由的な民間レベルでの信仰を強制改宗するために残虐な仕打ちを行ったことを承認するものではありません。

ただしもはやそのリスクを先回りして摘み取らなくては国が滅亡するかも知れないという危惧をも感じていたのでしょう。

そういった宣教師たちの意図を察知して、鎖国体制やむなしというところまでに至ったということです。

 

それにしてもフロイスとイエズス会絶賛のジュスト右近(高山)はじめ戦国大名たちがキリスト教に改宗していったのはやはり日本人がそもそも持っている「新しもの好き」の心からなのでしょうか・・・

その心があるからこそ昨日記しましたように鉄砲や大砲の製造技術と技量をスグさま「我が身」に取り込みステップアップさせてしまうところと同様です。新しいものに興味を惹かれることから次の新しいものが始まるのですね。

 

尚、高山右近は高槻領内の神社仏閣を破壊して僧侶たちを迫害していますね。勿論そのバックには宣教師が居たわけで・・・。

また、「ジュスト右近絶賛」の記述はフロイス「日本史」の各所に散りばめられていますが面白いのは右近の小牧・長久手戦の「縦横無尽の活躍」について。

その戦い(対家康戦)への彼の参戦については事実ですが本邦史料にはそのような「目を見張るような活躍」について一切史料に記されていないということ。

そういったことからこの「日本史」の記述も日本の文化を熟知していない者の「誤認と錯覚」に恣意的脚色も差っ引いて考えなくてはイケませんね。

真実を知らない本国への報告と自らの仕事の正当性を記すものですから。

しかし本当の彼らの目的が判明した今、それを読み進めるのは確かに面白いこものです。よって書棚の飾りだった彼の記述「フロイス日本史」について手に取るようになりました。

 

このキリシタン宣教師の活動こそ「世界史の最前線」の事象だったいうところ大いに合点させられるわけですが少々考えただけでも「彼らの影響がなかったら・・・」の「たられば」はピックアップできますし、各戦国の事象のウラを彼らの影を考えながら思考すると結構にわかりやすくなるのではないでしょうか。

 

信長が本能寺で討ち取られたあと光秀はその高山右近の合力を期待、てっきり秀吉の中国返しを迎え撃ってくれるものだと思っていたようですが、実際は山﨑合戦では秀吉方の先鋒として光秀の敵となりました。

この件こそ宣教師による調略があったといいます。

 

彼らキリスト教宣教師が光秀ではなく秀吉を選択したということは時間のない中ある意味凄いことだと思いますがその理由としては光秀が宣教師優遇と仏教勢力を排除(この仏教勢力排除の方向性も宣教師の指図があったことも考えられます)して教会整備等布教環境を整えてくれた信長様の仇であったということはひとまず推測できますが、やはり信長家臣時代の秀吉と光秀をよく観察し「コイツ(秀吉)なら術中にできる」という判断があったのでしょう。光秀は「古いもの」を大切にする性格だったでしょうし。

 

ますます、光秀の「本能寺」は仏教保護温存のためだった・・・などと主張したくなりました。

高山右近が中川清秀とともに秀吉を迎え撃っていたら状況は変わっていたかも知れません。高山右近が秀吉に付いたことから形勢は一気に秀吉に傾いたような気がします。

「ジュスト右近」の人望は結構にあったようですから。

 

そして今一つ、関ケ原直前の石田三成の凡ミスでしたが、光秀の娘玉子(細川ガラシャ)が人質になることを拒んで自害したこと。

「本能寺」以降の彼女の不遇あってのキリスト教入信でしたが、

その死は東軍の奮起にも繋がったはず。

彼女が「ガラシャ」でなかったらそのような死に方は無く、「関ケ原」は石田方に動いたかも・・・など、チラリとだけですが思うのでした。宣教師とキリスト教布教が微妙に日本史のターニングポイントに見え隠れしています。

 

ここで「フロイス日本史」第二章(p124中央公論)にある私ども本願寺方(浄土真宗)についての記述を記します。

これは石山本願寺退去後の地に秀吉が大坂城を建てたことについて記しています。 

 

「かつて大坂の街が日本中で極悪の宗派の一つ一向宗の本山であったように、今や主(デウス)はこの街をキリスト福音の伝播のためそれにまったくふさわしい地として改造・・・」

 

秀吉ではなく「デウスの差配で本願寺を一掃できたのだ・・・」と見える・・・そんな感想です。宣教師たちにとっては「しめしめ」といった状況だったでしょうね。

その後その「デウス」の差配なのでしょう「伴天連追放令」天正十五1587(伴天連=バードレ=神父)となるのですが・・・。

 

さて、昨晩は木曽川が氾濫危険水位を超えたとニュースで流れましたが周辺流域の人々は気が気ではないでしょうね。

これ以上の災禍が起こらないことを・・・

 

画像は再び長山明智城。木曽川からはそう遠くない地です。

いずれも本丸近くの図。

大河ドラマ放映決定後に色々と整備が進んだようです。

「馬防柵」の紹介は「おお!」と疑問半分、驚かされました。

そもそもこの東から西に延びる丘陵、長山を全体を縄張りとしていたと思われますが主郭直下の南側部分は開削されて住宅地が迫っています。

今は切岸状になっていてその馬防柵がきれいに拵えてありました。家々の二階屋根が見えています。

 

そしてまた地図にもあった「十兵衛坂」(⑨がその入り口)の後付け整備も地元の「やる気満々」が伝わってきました。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (火曜日, 07 7月 2020 08:49)

    確かにキリスト教は日本侵略を目論んだかもしれません。
    日本に来た宣教師はそれを知らずに偏に神の教えを広めるためかもしれません。
    それでもキリスト教が広まったのは、それまでの仏教はどうだったのでしょうか。
    容易くキリスト教に負けてしまったくらいのものか。
    お寺がどんな役目を果たしていたのか。今でも同じかもしれません。
    葬式仏教と化しています。
    キリスト教の在り方とどこが違うのか。どうしたら仏教が広まるか。
    仏教の在り方が、今と大して違っていないのかも。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 07 7月 2020 09:41)

    ありがとうございます。
    仰る通り仏の教えに対する私ども寺院の在り方は反省するばかりです。
    古くから受け継いできた教えはそれまでの国家的バックボーンが失われたといえ
    かつての偉大な先達善知識の本意を理解、実践できない私がただあるだけです。