高島安曇川田中 五番領の本願寺派二寺掲示板から

昨日はC・イーストウッドの西部劇のタイトルまで持ち出して(それが特に好きな文句ですので・・・)そのワル者をそうあるべきと言い放ったワケですが、やはり彼の最近の映画の中の台詞も思い出しました。

最近のあの「事案」について思うに「お金で何でも買えたが時間だけは買えなかった」のセリフをも思い浮かびます。

拙ブログではこちらで記していますが「運び屋」のラストでした。

「大切なものは家族」というセリフもなるほどと唸らせましたが勿論彼の言った「お金で何でも~」は一般論です。

湯水のごとくお金が有り余ったような生活を送っていたワケではありませんからね。

要はコンビニやスーパーから品物の取引としての価値の交換媒体があれば・・・というその後に続く「時」の重大を引き出すための語句。

 

ところが昨日逮捕された元の法務大臣の買ったものといえば投票用紙。コレは権力とさらなるカネをゲットする権利を買うということですね。カネでもっともっと大きいカネを買うという構造。

 

それにしてもこのようなこと(カネで票を買う)が通用するのだと思いこんでいる者がいまだ存在するということ、実際にその結果勝ちうること(当選してしまう)、それが法務大臣という地位の人間が大手を振って行っていたこと・・・は日本に住まう一国民として私も「責任を痛感」いたしますよ。

何より若い人たちに謝らなくてはなりません。そんなことを許して放置していたのですからね。

 

まぁ「法務大臣」という職以前に、「それをやったら捕まる」(脱法行為)ことであって、それも誰が診ても見え見えの所業。

そこを気づけない、夫婦で補完できないということが痛すぎるのかも。

 

やはりまた検察トップの賭博開帳図利の罪状疑わしき者への御咎めナシ的処遇、国民には厳しく自分たち法施行管理者には甘く・・・の件も大いに疑問ですね。

「吊るせ」とはキツイ感情表現(昨日)でしたが、表に出て納得できる説明をしていただかなくてはね。

 

「三十六計逃げるに如かず」か、いつもながらの常套句「責任は痛感」のみ・・・一昔前に流行った反省猿じゃああるまいし。

 

さて、本日はお寺の掲示板2つ。

両方とも本願寺派(お西)のお寺で、冬場に高島の田中、五番領なる街区を歩いた時の図です。

勝満寺と真光寺という隣り合うお寺の掲示板を。

毎度聞き慣れた語ですが煩悩に負けて無用な苦しみを味わう私たちには「耳タコ」になるほど聞くことは必要か。

 

「富むというのは物をたくさん持つことではなく

     足るを知ることを富むというのです」(中村元)

 

「一年の計は元旦にあり 一生の計は只今にある」

 

カネとその人の一生、生き方を伝えています。

それを思できないことがまさに気の毒なことかも知れませんね。

今を生かされている奇特を感じることができないということはますますの増長によって破滅するというのが歴史に見る「人」のパターンでした。

 

大きな法要は合同で行っているようです(場所はこちら)。