史実は如何に明智城 「美濃国諸旧記」と「明智軍記」

昨日は清水三保のホテルが破産手続きに入ったとのニュース。

静岡県内でのコロナ倒産は17件目だといいます。

今後その手のネガティブニュースは増えていくのでしょうね。

 

観光業ほど先が見えないという業種はありません。

昨日も記した「オンライン観光」などはあり得ないですからね。

また、私の一昨日の東濃日帰り行脚ではありませんが、宿泊をしてもらわなくては、その出番はありません。

 

今後徐々に回復の方向には向いていくのでしょうが(この社会のすべての人々の余裕と安心が不可欠です)本格復活までは耐力勝負のみ、淘汰の嵐も吹き荒れることとなりましょう。

 

そういった職場で働く人たちの再就職の受け手や関連業者の連鎖的苦境もあり得ます。

 

さて、可児の明智城の別名は長山城(おさやま)。

地名は明智荘八か郷の一つで「瀬田」という今も田園風景の見られる地

こちらの「明智」が(恵那の明知に対して)「明智光秀出自はこちらである」を推測させるその根拠が「美濃国諸旧記」という軍記物語で江戸初期に記されたものですね。

要は著者不明、時代の矛盾も各あって信用半分・・・というところがその根拠として「説」付きたる理由。

 

また江戸期でも元禄期に記された明智光秀が主人公の「明智軍記」という書物にも記されているようで、それもそのまま信ずることはできないようです。

 

以前拙ブログの今堅田の城で「堀口貞満の娘が土岐氏一族の長山頼基(土岐九郎)に嫁いでいてその系が明智氏の祖」と引用、記しましたがその辺りの件の根拠はこの二つの軍記からでしょう。

この長山頼基の「長山」が明智荘の丘の地名からでしょう。

昨日も「山城」との表現をしましたが、城郭大系のくくりでは「平山城」とありました。

 

大河ドラマでは丘の上の建物が炎上している様子が描かれていましたが実際の城館は麓の平坦地にあって、本丸付近も大した建物が無かったと言われています。

コレをそのまま受け取ればある程度の発掘調査によって、炭化層や建物基盤の石材の発見に至らなかったということかも知れません。

それでいて比高も大した高さもない城で、比較的広い曲輪にもかかわらず、規模の大きな建造物が無かったということは首を傾げるところです。

 

先日は信長による比叡山焼き討ちの件での発掘調査で「全山焦土化」は誤解で、諸坊の多数で炭化層は見受けられなかったことを放映していました。推論としては近江坂本の平場の各道場を焼き払ったことを一括りで「叡山焼き討ち」と言い囃した可能性を指摘していました。

 

斎藤義龍による攻城によって多くの炎上(その件も「美濃国諸旧記」)があったのは根古屋だったということで・・・。

 

大手口は「桔梗坂」なるお洒落な名前に。

この時期、あの石畳の歩道は年配者はお気をつけください。

水が出て涼し気ですが滑りますよ。

ただしお気楽散策気分の城ではあります。

 

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    kurikuri (水曜日, 17 6月 2020 22:21)

    リゾートホテルと言えば、御前崎グランドホテル、サンホテル、ウェル静波なんて懐かしいですね。観光は下り坂かな

  • #2

    今井一光 (水曜日, 17 6月 2020 22:27)

    ありがとうございます。
    静波のホテルはバックに大きな資本がありますからまぁなんとかなるところでしょうが、
    御前崎のどちらかのホテルは既に無かったような。
    また残っている方も中国資本になっているようです。
    御前崎の先っぽあたりに行けば、特に大きな台風が過ぎた直後などまるで「廃墟」の如くです。コロナ禍以前の状況がそうでしたからこれからのそちらは見ものです。