「歳月人を待たず」陶淵明と善導の「日中無常偈」

昨日の感染者は東京の78人のブッちぎり(3/31増加数は全国200人 大阪28 静岡3)の数字は圧巻。新記録でした。

以前東京の数字が「80人」にのせたあたりが「医療崩壊のライン」・・・などとどなたかが仰っていましたがこのペースだとその80どころか三桁も明日当たりに・・・という勢いです。

隠れていたというか隠していたというか「よくもまぁ」と呆れるばかりではありますが東京の崩壊については気がかりでもあります。何より人命にかかわりますからね。

 

「外出禁止」になれば定期通院のある独り暮らしのお年寄りなどどうやって生活すればいいのですかね。

勿論、東京くらいの都市にあってはその辺りの件、完ぺきな対応を用意されていることでしょう。期待していますよ。

宅配便も止まったとしたら補給もできませんからね。

 

「PCR検査はやらない」(厚生省大坪氏)理由、そのバックボーンはオリンピック開催の体裁(官邸)であって、その延期が決まった途端に検査を一気に増やしたとすればその魂胆はもろバレです。

よってそれが検査数を大きく増やせない理由なのでは・・・などと考えてしまいます。

今それを完全に行ったとしたら・・・どのような数字が出るのでしょう。きっと病院はパンクしますね。

 

昨晩海外からの報道がありました。

「東京五輪組織委員会理事を務める広告代理店電通元専務の高橋治之氏が、五輪招致を巡り招致委員会から約9億円相当の資金を受け取り、国際オリンピック委員会(IOC)委員らにロビー活動を行っていた」です。

なるほど・・・どこまでえげつないのでしょう。

海外からは勿論その誘致のインチキについての指摘がぶり返すでしょうね。

セレブレイト・・・フォーチュネイト・・・とラップの韻踏みではありませんが「それで本当によかったの?」と思うところです。

 

検査についてどこの国でもやっていることが「できない」理由は「それ(隠し事がある)しかない」という結論に至ります。

それは感染者数の隠蔽ということになりますが、もしその意であったとすればこれから東京の感染者、いや首都圏も含めて「大爆発」となるやも知れず。

振り返れば「大丈夫終息するから」の楽観が大手を振っていた「時間」があったことは確かでした。

 

昨日も記しましたように今は崖っぷち。悠長に「検討」している時間などありません。

 

そしてさらに「このパンデミックの終息に数年かかるかも・・・」とのWHOの方の意見がありましたがそうだとしたら1年延期の画策はじめ何から何までオリンピックの件は徒労に終わるということです。

お調子者が揃った人類に自然界からの「しっぺ返しが来た」とそれこそ常套句となった「真摯に」の通り「粛々と」受け入れる時なのかも知れません。

何事も早いところ「手を引いた者勝ち」か・・・痛みが少ないうちに。

 

やはり今、直近防衛策としてはせめて2週間分の食料くらいは買い溜めておくのも一手でしょう。既にそんなレベルかもね。

奥方は神川県内在住の母と息子に「当面の食糧確保は必然である」の如く連絡していました。

 

さて、昨日の夜、たまたまNHKのラジオから陶淵明(365-427)の「雑詩」「歳月人を待たず」の詩が聞こえてきました。

その詩の冒頭の部分から当流お馴染み七高僧の一人善導さんの「日中無常偈」を連想しましたが、善導さんは613-681の人と言われていますので陶淵明の方が大先輩。

 

まず日本人にはその詩の最後に記された「歳月人を待たず」はあまりにも人口に膾炙していますから特に著名です。

 

人生無根蒂 飄如陌上塵 分散逐風轉 此已非常身

落地爲兄弟 何必骨肉親 得歡當作樂 斗酒聚比鄰

盛年不重來 一日難再晨 及時當勉勵 歳月不待人

 

一番に善導さんが無常偈にとり入れたのでは・・・?と思うところが冒頭の「人生無根蒂」。

要は「根なし」で「足元」がしっかりせずにフラフラの躰の件から始まり「歳月不待人」と閉める詩ですが「無常」溢れる人生観。

そして「だからこうすべき」の部分は「若い時など二度とこないのだから酒を飲んで騒ごう」ということのような・・・。

 

あたかも(ウィルスが蔓延しようが)「若い連中は飲み屋に大勢で繰り出して楽しく酒を飲もう」の如くではありますが、「歳月不待人」の直前の「及時當勉勵」に着目しなくてはなりません。「時に及びまさに勉励すべし」の「時に」は「時機」。

闇雲ではなかったはず。

年がら年中酒飲んでバカ騒ぎをしろなどとは言っていませんね。

 

やはりそのものズバリ今は「歳月不待人」なのです。

ヤバいですこの時間も。

尚、詩の解釈はネット上に溢れています。

 

画像は①は「舞鶴」。

②は本堂裏のヤマザクラ数輪開花の図。東京ソメイヨシノに比べて開花は遅かったです。その奥に先日「そろそろ撤去」と記した足場が見えますが、少々気になる手直し箇所がありますので、そいつをやっつけてから・・・という段取りとなりました。

③は本堂経机の「日没無常偈」を記した紙片。オリジナルの音符が記してあります。

「至心懴悔」「日没無常偈」も時に単独で勝手に詠ませていただいています。

 

私の法要のバリエーション、趣味的に挿入するもので、当流大谷派の形式からは逸脱している向きがあります。

正統派の息子からすれば邪道と酷評されますが、私は「まぁいいじゃねぇか」と意味不明の開き直り。

おそらく彼はこの「音符」の紙切れは継承しないでしょうね。

私は法要とはいいますが「独演会、寺コンサート」のつもりで下手クソなりの絶唱を試みます。漫然とパターン化した法事はイヤですからね。