浅井家代々由緒 小谷城の喉元 丁野城

現在中国から欧州へ強烈に広がっている新型肺炎は特にイタリアの医療崩壊をもたらしているよう。

悲惨です。

それは患者の増加に対して「医療が間に合わない」ことを言いますが、ぶっちやけそれを言えば「治療放棄」ということになります。手に負えないのですね。

 

放置して「当人免疫力にまかせる」は成す術無く、万策尽きたというようにも見えますが、これはウィルスにとっては最悪宿主たるヒトが死んでしまい次々と感染させて自らの種が繁栄するという本来の目的が失せてしまいますので彼らの本来の意図ではないはずです。

何とか宿主は生かしながらDNAを流布させようというのがそのウィルスの目的ですね。

 

よってこういう場合、ウィルスは自然に毒性を弱め(宿主を死なせば目的が達せないため)るというのがその成り行き。よって生存確率が増えて、かつ人類の免疫力の増加が伴い案外と終息が早まる可能性があるわけです。

この放置というものはいわば「殺すなら殺せ」の開き直りのようなものですがそれが「ウィルスと戦う手段」となったとしたら死にゆく人にとってはたまったものではありませんね。

統計的数字の一つに数えられるハメになりますので悲惨なのです。

 

日本でも高齢者と持病のある人の危険性が指摘されています。

 

実際その通りに亡くなる方はその手の方たちが多いですね。

そして他の世代、特に若い人たちの致死率は低く「大して怖がる必要ナシ」のようなことをエライ人に限って言っています。

それを公言したら若い連中はいつもの生活に舞い戻ってこれまでのいろいろ、すべての意味を失くしてしまうのでそこは言わなくていいところでしょう。

昨日の埼玉で発生した一家5人陽性の件など「高校生の子供が最初だったおそれ・・・」と聞きました。

 

また最初から「PCR検査はしない」の主張をされていた理由はその「殺すなら殺せ」の開き直りのスタンスであったのかとも・・・などと疑いたくなりました。勿論死ぬのは庶民です。

エライ人はちゃっかりPCR検査していますからね。

 

まぁ「和歌山モデル」の高評価がありましたように検査トリアージ(優先順位をつけた振り分け)のうえに「検査判明」でシロクロはっきり付けていったことが「正しい」やり方でしょうね。

 

「正しい恐れ方」などあるワケもなく。バカバカしい・・・

その語は昔から民の一揆、騒乱、打ち壊しの類を「抑えたい」といった為政者たる者の身に着いた気持ちの表れなのでしょうね。

やっと和歌山モデルの件お国の方は気が付いたようですが、既に遅しの様相か・・・

 

さて昨日は信長による山本山城の阿閉氏への調略成功が小谷城浅井方の総崩れの引き金になったことを記しましたが、その山本山城の位置といえば小谷城から見てほとんど西方向5㎞ほど。

そして小谷城の喉元、対面する虎御前山から宴の様子まで見せつけられるまでの屈辱に至ったわけですが、その虎御前山の近く、やはり小谷城直近に丁野城がありました(場所はこちら)。

 

虎御前山や山本山城と比べると一応は山城の範疇とはなりましょうが、そう要害性の強調は無く、一見したところでも攻めやすく守りにくいの感。当初は有事の時は小谷への気持ちがあったのでしょうね。

しかしながらこの丁野城を築城したのは浅井亮政といわれますし、小谷城麓のここ丁野の地は浅井家数代に渡る中心にある場所になります。

「江州佐々木南北諸士帳2 浅井郡」の丁野城に重ねて記述があることからもその重要度がわかるというものです。

 

 

丁野城主   佐々木随兵      浅井備前守亮政

丁野城    住 三条大納言公綱後胤 浅井下総守久政

         小谷山城主長政ニ至リテ江州五郡ヲ預リ

         佐々木ノ四天王ノ一陣ニナル

         浅井蒲生進藤後藤ナリ

丁野城    住          〇浅井備前長政

丁野城    住          脇坂与右衛門丁野城    住 佐々木浅井随兵後家康公随兵成右甚内

                  脇坂甚内左衛門

丁野城    住          脇坂助左衛門

丁野城    住          脇坂佐介

丁野城    住          丁野弥兵衛

丁野城    住 佐々木浅井随兵 

     豊浦冠者行実四男重成 

       長男源三重綱 七代恒方四男 木村刑部左衛門

丁野城    住 子流元暦乱一谷八嶋所ニ

         三郎殿手ニテ軍功アリ 木村喜内介

丁野城    住          千種宇兵衛

丁野城    住 佐々木浅井随兵  八田勘介

丁野城    住 佐々木浅井随兵  服部西右衛門

丁野城    住          壇尾介左衛門

丁野城    住          日根野次右衛門

丁野城    住          谷九郎助

丁野城    住          島本馬之介

丁野城    住          水原播左衛門

丁野城    住          水原河内

丁野城    住          水原伊賀

丁野城    住          水原甚介

  

 

城山へは以前は無かった小谷城スマートIC周辺ということになりますが、私はまずは大谷派の八叢山専光寺にて合掌してから。まさに「阿弥陀さんの寺」を主張しているかの如く名です

山号の「叢」は「たくさん」の意味でしょうか・・・

 

そして城址へは谷田神社を目指します。

神社の略記には井伊掃部が「木俣土佐」に社殿を改築させたとあります。

こちらにも木之本地蔵院の「木俣」と同様遠州新野の匂いを漂わせていました。

 

手前の開けた場所からはいつもの伊吹山が。

この山の名は岡山。かつて弥勒寺なる山寺があったようです。

掲示板の如く、織田勢に包囲された際は越前朝倉方の合力組が入っていたようです。

最後の画像2つが小谷山と虎御前山。

いづれも目と鼻の先です。

ただし画像は古いものばかりで恐縮、立て看板は更新されているかも。